書籍紹介ー極限の希薄さと希望ー 西村曜さん『コンビニに生まれ変わってしまっても』


刺激的なタイトルと表紙の歌集です。なんだそりゃ、と思うかもしれませんが、あとがきには
「これはわたしの第一歌集です。タイトルについて、人間がコンビニに生まれかわってしまうことは、ままあるとおもうのです。」
とあります。

ここで、コンビニに生まれ変わる。という事が、冗談ではなく本気で言っていること。また、生物が無機物を越えて人工的なシステムに生まれ変わるというファンタジーの話ではなくて、コンビニ的な何かに、身も心も洗い流されてしまう。というような意味なのだと分かります。更にその危機感が、コンビニ依存というレベルではなくて、生き物として(もはや有機物、実体というレベル)の根本からまっさらに奪い取られる。というラディカルかつかなり至近距離の危機感として表現されている。という事だと思います。
収録された歌はその視点が色濃く反省されています。

百均で迷子になってしまってもこれぜんぶ百円だとおもって走れ
そばにいて。バールのようなものがいまバールに変わるからいまそばに
玉ねぎを剝ぐと現る一まわり小さな玉ねぎおまえはだれだ

—百均は、とても大きな店舗もあるけれど、これは物理的な迷子ではなくて、百均というシステムの中での精神的な迷子。という事だと思います。何かに追われている。ただ質が悪いだの、途上国がなんだ格差がなんだ、という社会的な理由付けはその影も現わしません。ひたすらに、魂を浸食してくるような印象があります。ジョージ・オーウェルの小説『1984年』のビッグ・ブラザーが、より身近で、質の悪い形で立ち現れた印象も持ちました。
バールの様な物?そばにいて欲しいほどの怖いバールとは、ミステリー小説などで鈍器に使われるバールですが、鈍器であればバールでもバールのようなものでも関係ないんじゃないか。もし、打たれるとするならば、打たれる事は確定していて、変わるとしたらそれが似たものかそのものか。そもそもなんでバールなんだ。というように、形のない不安に覆われた歌です。
その不安さはいたる所にあって、玉ねぎを一枚剝いただけでも、それがなんだったのか、自分がどこにいるのか、分からなくなるほど、足元が崩されている事が感じられます。

暴動のニュースを消せば暴動は消える僕らの手のひらのうえ
ひきこもり人口七十万人と聞く夜の角から崩れるとうふ
テロ等の<等>に僕らは含まれる雨に打たれてキスをしたから
いましがた期限の切れた牛乳を(こわくないよと)二人で飲めば

—現実の希薄さにどこまでも追われていく。携帯の画面を消せば、そのニュース自身も存在を消す。それは、自分の意識が弱いからとか、情報化社会が悪いとか、そういう次元の話ではない。もはや止められない何かの一端で、豆腐の角のように街が崩壊していく。それをただなす術もないものとして見つめている。テロ<等>、賞味期限、など、少しの規範の隙間を、確かに保障してくれる言説や風潮なんてなくて、辛うじて大切な誰かを手を繋ぐ事で生きながらえている。そんなギリギリの世界を感じます。

「いつまでも実家暮らしはアレだし」と言う俺自身わからないアレ
シンプル・イズ・ベストかつ餓死・イズ・シンプル つまり僕らは天国へ行く
「いっしょうのおねがい」を言う 九歳が 十三さいが 五十二歳が

—あらゆる価値観が氾濫している。アレだし。といえば通じる。でも、その本当の意味は追求されきっていない。シンプルイズベスト。では、シンプルな物は全てベスト。というのは論理学の後件肯定という代表的な誤謬。もはや、僕たちは論理の通じる世界には住んでいないという事でしょう。「いっしょう」という意味も平たくのされてしまって、誰も彼もが、限りなく0に近い1の世界を生きている。という事のなのだと思います。
とはいえ、何もかも絶望している訳ではなくて、人の心も、愛情も持っている。

サブウェイの店長として一生を終える他人がとてもいとしい
持ってません温めません付けません要りませんいえ泣いていません

―のような、感情的な歌も印象に残りました。世界を諦めている訳ではない、愛はってもとにかく、全てが不可避である。という事なのだと思います。
加藤治郎さんの帯文「心の底から歌った<おにぎり>がある」も、とても心に残りました。
これだけギリギリの世界を見つめながらも、圧倒的な生命力で生にしがみついている。逆説的な、力強さも感じました。
世界が世知辛い、と思っている方にこそお勧めしたい一冊。底を覗いたのち、新たな光が見えるはずです。(よ)

書籍紹介・・・聖と俗の狭間で、人の営みをみつめる-八木博信さん『ザビエル忌』-

八木博信さんは、2002年に短歌研究新人賞も受賞している歌人で、以前には、『フラミンゴ』という歌集も出されています。

東郷雄二さんのブログでは

ヴァーチャルな神話的空間で残酷さと美しさを詠う

とも評されていますが、『ザビエル忌』に関しては、かなり現実的に問題を直視した描写が多いように感じます。

こんぎつねを撃ちても悔いぬ心あれ朝の読書の沈黙の中

道徳の時間始まる月曜の朝もっとも喉かわくとき

おそらくはどこか過失があるだろうこの美しき方程式に

具体的な懊悩や感情の吐露はかなり抑圧されていると思います。ただ、根本的な視点としては、「罪」を真っ直ぐに見つめている。その強大さから逃げることもしなければ、安易に解決することもない。ただひたすらに正面から向かい合う。という、過酷な状況に身を置き続けています。方程式のように、完璧に見えるような世界にも、ほころびがある。

また通して読む中で、キリシタン、またはキリスト教に精通した方という事が分かります。人の抱える罪をひたすらに見つめる中に、祈りもあるのかも知れません。

「ねえ、先生、来たよ初潮が」おめでとう遥かな国の武装蜂起も

水玉のTシャツなれば教室の流水算に溺れる少女

保育園最後の子供帰宅して園の兎に魔が降りてくる

少女達は、露悪的な世界であったり、選択の余地なく、悲しい環境におかれる事もある。保育園の様な、ある枠を出た瞬間に魔の手に囲まれる事もある。ただ見つめる、という中に憐れみも、怒りもあるのだと思います。ただ、一貫した目線の中に、それでも彼女達は生きていける。という強い確信もあるのではないかと思いました。

希望とはまさに悪徳 若草が蒼し静かに火の迫る野に

いつも来る無言電話の向こうから過失のごとく聞こえる聖歌

マリア像白き両手をひろげ立つタネも仕掛けもありませんよと

祭礼のようではないか厳かに電球ともる地下鉄工事

救いの様なものに出会う事もある。けれども、時にその奥にこそ魔が潜んでいる事も知っている。工事現場や、無言電話にも、人の営み、命の聖性を嗅ぎとっています。世界にはタネも仕掛けもない。何もない、と言われれば何かあるのではないか。と思うのが人であって、常に救いと罪の間を問い続ける、一貫した厳しい姿勢を保っています。

わが死体焼かれるときも寒き日かブーツの先に降り積もる雪

指をつめる極道耳を切るゴッホ おやすみなさい刃を胸に

雪の積もる日々をひたすらに歩く。ただ、どんな人達にも、必ず安らかな日が訪れる。そう信じているから、ここまで一貫した厳しい姿勢を保てるのではないかと思います。

多様な西洋的の見識と視点を元に、硬質で魅力的な世界観の中で問われる人の在り方。

この8月には、色々な事に思いを馳せようと思います。

(よ)

糸を染める

箒の編み込みに使う糸を染めました。

編み込み部分の糸は、天然染料を使い自ら染め上げたものを使用しています。
べんがら、茜、鉄媒染など。薄ピンクやグレーなどの柔らかい色合いに仕上がります。

今日染めたのは、藍。

藍染によって生まれるブルーは、糸に使われる色の中でも最も濃い色。
中津箒の特徴的な編み込み模様がくっきりと見えることから、人気のお色です。

糸を編み込むことは装飾ではなく、機能的な面が大きいです。しっかりと縛り、長年の使用に耐える丈夫な胴をつくること。しっかりと茎と糸が組まれていくと、仮にどこかほつれてもバラバラになりません。

かつては、ビニールや、派手な色も多かった箒ですが、天然の良さを活かすため、草木染を中心に、染色しています。

BLUE POND「サマータイム」展

いよいよ、space1-15の夏まつりを皮切りに、ガラス作家BLUE PONDさんの展示が始まりました。

小皿、箸置き、帯留、コマなどもあります。

BLUE PONDさんの魅力は、何といってもその自由さにあると思います。

作家ご本人を知っている方は初対面でその大らかさ、心の軽やかさに気がついているはず。

生き方や思想、というより、そのお人柄が作品に満ちている事がすぐに分かると思います。

作者の青池さんは、武蔵野美術大学の工芸工業デザイン学科卒業。在学中には陶磁を学んだり、卒業後は伝統的な鋏職人の所で働いたり。現在はグラフィックデザインも手がけながら、音楽活動もしています。ガラスを主な仕事としながらも、愉快な事、人と繋がる事を何よりの喜びとして、跳ねるように日々を過ごしています。

シャープな印象のアクセサリーも多く手がけていますが、今回、がたんごとんに併せてお持ち戴いたオブジェや、駒、風鈴「つららの音」(つららのね)、絵画など、バリエーション豊富にお持ち戴きました。

磨く、削る、など、エッジのある印象を持たせるよりも、ガラスを窯で溶かす技法で、その偶然性や変化を楽しむ BLUE PONDさんの作品への向き合い方は、偶然性のある陶磁や、場を楽しむ音楽など、ご本人の在り方と一体になっているように思います。

今回、アクセサリー以外のものもたくさんお持ち戴いた事、ライブを開いてもらった事などで、BLUE PONDさんの魅力を多く引き出す展示に出来ました。

展示に併せてお持ち戴いた本『考えない世界』もとても素敵な本です。

8月いっぱい開催中!

皆様のご来場、お待ちしております。

(よ)

書籍紹介ー「未明」02ー

◆『未明』について

『未明』は「ポエジィとアートを連絡する叢書」というコピーの掲げられた本です。

一見すると詩のアンソロジーですが、他に類を見ない本となっています。あとがきに、この本の意志が書かれていました。

「『未明』は詩誌ではありません。さまざまな職業の表現者たちがそれぞれのポエジィを持ち寄り、それを編んだアンロソジー叢書です。」

◆『未明』のポエジィ

ポエジィは、詩情とも訳されます。ポエジィは詩特有のものかと勘違いされがちですが、僕の畑でいえば工芸。音楽や美術、演劇、あらゆる芸術分野が、詩情をもっています。この本を開いてみると、実は35名中、いわゆる多行書きの詩のみの作品は4名ほどで、ミュージシャンや翻訳家など、詩人以外の顔を持っている人が殆どです。

詩+散文。短歌、俳句、写真。

または単体の版画、日本画、建築、写真。エッセイは、食べ物、音楽、民話、旅、歴史など、多岐に渡っています。

詩誌でも、アートブックでもない。しかし読んでいると、確実に通底したものを得られます。これだけ多様な作家の言葉や表現を1つに繋いでいるもの。作品が本質として抱えているものがポエジィなのだと思います。

本全体ではなく、個々の全ての作品に触れたいのですが、その内容はとても多様です。

木村朗子さんと山本昌男さんの、壮大な幕開けを感じる冒頭の写真。谷川俊太郎さんの果てしない問いかけ。岸本佐知子さんの翻訳された俳句。蜂飼耳さんの、慈愛と命の不思議に触れるような詩と文。扉野良人さんの、僧侶ならではの深みと、世捨て人のような心地よい詩。齋藤靖朗さんの、中世の修道女ヒルデガルドの世界観とその背景もとても興味深かったです。

中家菜津子さんは、当ブログでもご紹介した事がありました。詩や短歌を自在に構成する作家さんなので、むしろここがホームグラウンドなのでは…?と思ってしまうほど、魅力を発揮されているように思いました。

『四季』より『十二月』

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古いビデオの中の夕光が

窓から差し込んだ夕日に

混じりあうのに見惚れて

五分後、君は巻き戻す

黄色い帆、乾いた音をたてながら風が止むとき銀杏にもどる

ー本当は、作品の連なりの中で得られるものの方が多い気もするのですが…!ややノスタルジックな世界観と日常の中に、叙情、詩的な暗喩が漂います。風を受けた銀杏が黄色い帆に見える。というのはとても短歌的な喩に思えます。実景と喩という行間に、詩と短歌という行間が足される事で、言葉の奥のポエジィが掛け算として広がるように思いました。

小津夜景さんも、とても魅力的な文章を書かれる俳句作家さんです。

『ゼリーフィッシュと遠い記憶』より

「では、水族館に行きますか」

肘をついて、ぼんやりしてゐたら、とつぜん目の前のひとにさう提案された。このひとにはテレパシーの性癖があるのだ。

あんのんと烏帽子に花のえくぼかな

時は春。ハイウェイ・ハイな音楽を聴きながら、海岸ぞひの道を車中から眺めてみれば、どこもかしこも桜の花でいつぱいである。

ペンキ塗りたての札立つ鳥居かな

ー男性は、帽子でも被っていたのでしょうか。烏帽子、テレパシーの性癖、ハイウェイ・ハイなど、キレのあるワードセンスの中に、旧かなづかいや「かな」という切れ字、あんのんという柔らかで古風な響きなど古典的なニュアンスも練りこまれて、文体に取り合わせが散りばめられているような印象もあります。そのせいか、全体は穏やかで水族館に行くという日常のはずなのに、気づけば少し不思議な世界を漂っているような。水族館、クラゲというモチーフが、更に意識を浮遊させます。

松葉末吉さん(テキスト・外間隆史さん)の写真と解説、『松葉末吉のポエジィ。』もとても素敵でした。明治生まれ、北海道の温泉街でバスの運転手をしていたアマチュア写真家の写真を載せています。現像用の水も、1キロ離れた井戸に汲みにいく様な土地にいたようですが、それは、昔懐かしい日本であるとか、貧しさを美化する視点のような表現ではありません。芸術写真のような、偉そうな気配もなく、ただの家族写真というにはあまりに慈しみや叙情にあふれた、とても魅力的な写真です。テキストは、松葉さんを過剰に讃える訳でもなく、時代や、生い立ちを比較的淡々と語っています。市井のアマチュア写真家、その中にも、あまりに豊潤なポエジィがあった事を教えてくれます。

敢えて様々な道筋を用いる事で、芸術全般の本質、詩情を生々しく掴もう。鮮やかに描きだそうという、堅く強い意志を、この叢書全体から感じました。

あとがきより

「詩やそのほかの文章は目に見えるものですが、果たしてポエジィはなかなか文字や絵になってくれません。なぜならそれが「詩的なるもの」ではなく皆さんよくご存知の、心に起こる<現象>に過ぎないからです。

ここに並ぶ作家らの裡(うち)に明滅したほんの微かな<現象>を、どうぞご覧ください。

それはきっと、あなたの裡にも起こるはずです。」

このブログでどこまで説明しても現象の説明にしかなりません。その現象そのものは、是非、ご自身の心の中で味わって戴ければと思います!

(よ)

道新への掲載/箒の種類と価格について

2018年7月23日の北海道新聞の夕刊・全道版の紙面にて、当店の職人と箒をご紹介いただきました。ありがとうございました。

掲載後、お問い合わせもいくつかいただいております。
記事をご覧いただき、また、箒にご興味をもっていただき、誠にありがとうございます。

HP上での情報掲載が間に合っておらず、お問い合わせ後の対応で大変恐縮ですが、当店で制作・販売している箒のリストを以下に掲載いたします。ご参考ください。(クリックで大きくなります)

12cmなどの表記は、柄から穂先までの箒の全長です。一本一本、微妙に違ってくるので「おおよそ」とお考え下さい。

タイミングによっては、店頭で品切れしている場合もございますが、今現在は在庫が充実しているので色々とご覧いただけると思います。
なお、「中津箒」には職人が何人かおり、そのうちの一人が当店の吉田慎司です。当店で販売するのは、吉田が作る箒のみとなっています。

今週末は職人が不在となりますが、8月の営業日は全ておりますので、制作の様子をご覧いただけます。
9月はイベントへの出張で、不在や休みの日が多くなってしまう予定なので、直近でご来店をお考えの方は8月中がおすすめです!!

HPやSNSでは、つい本のことばかり書いてしまっているのですが…
箒のことについても、今後紹介してまいりますので、ご興味ある方はぜひSNSをフォローしていただければと思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

【7/28 WS開催】シルクスクリーンを体験してみよう!

【7/26追記:おかげさまでWSは各回定員に達しました!
見学やキットの購入はできますので、ご興味のある方はお気軽にお越しください】

7/28の土曜日、大阪よりレトロ印刷JAMのスリマッカーが、
がたんごとんにやってきます!

自分で書いたイラストなどをその場で製版して、シルクスクリーンという技法でトートバッグやTシャツなどの素材に印刷するワークショップです。
スリマッカおじさんが丁寧に教えてくれます♪
みんなでわいわい楽しみながら制作しましょう!

シルクスクリーンが好きな方、オリジナルグッズを作りたい方、
なんか面白そう〜!という方、ぜひお気軽にご参加ください。
お子様・親子での参加も大歓迎です。

見学のみも大歓迎!空いていれば、当日の飛び込みもOKです。
SURIMACCA(スリマッカ)や、インクの販売もあります。
http://surimacca.com/surimaccattenannan.html
(送料分が圧倒的にお得!!!)
気になっていたあなた、どうぞこの機会にお越しください!

【日 時】2018年7月28日(土)

①12:00-13:00 ※定員に達しました
②13:30-14:30 ※定員に達しました
③15:00-16:00 ※定員に達しました
(各回4名ずつ)
(※7/26時点の予約状況です)

【参加費】500円 ※素材・製版代別途

【素材代】100~500円程(トートバッグ,巾着など)
  ※素材持ち込み可
【製版代】 XS(8cm×20cm):800円 S(20cm×20cm):1100円

※原稿はその場で書くこともできますが、ご用意いただくとスムーズです。
サイズ調整、モノクロ加工などは当日行えます。
※インクがつく場合もありますので、汚れてもいい服装でお越しください

【申込み】

・がたんごとん店頭
もしくは、

・がたんごとんHPの「お問い合わせ」より
①お名前 
②当日連絡可能な連絡先 
③参加人数 
④参加時間
をお伝えください。

”シルクスクリーンってなに?” な方はこちらをどうぞ↓
●SURIMACCAR 
http://jam-p.com/plus/surimaccar.html
●レトロ印刷JAM
 http://jam-p.com

書籍紹介ー石亀泰郎さん写真集「ふたりっ子バンザイ」

今橋さんの歌集に続き、子ども関連の本の紹介です。

50年以上、子どもの写真を撮り続けた石亀泰郎さんの、最初の写真集の復刊です。戦中に生まれ、小学生の頃は農村に引き揚げ、中学の時は北海道の叔母の養子になり、子どもの頃は寂しかった。という石亀さん。

『ふたりっ子バンザイ』は、本当に日常の風景。ミルクを飲む。寝る。三輪車を押す。笑う。押し合う。泣く。走る。当たり前の日々が綴られています。

ネットに溢れるような派手な夕日や、「奇跡の瞬間!」の様なシーンは1枚もありません。普通の日常。ただ、この2人にとっては生きている事がどうしようもなく刺激的で、真剣で、かけがいのない事なのだと気付かされます。街にいる子ども一人一人が、全ての大人が、この世界を持っていたのだと教えてくれる。

本当は毎日が、今の一瞬が、私達の奇跡の瞬間なのだと思います。

ふたりっ子バンザイ!!

生命バンザイ!

あとがきよりー

「今の子どもたちを見ていて思うのは、自然の中で育つ機会をもっと増やしたほうがいいということです。もう一つは、子どもたちに自分自身で何かを見つけだしてくる癖を身につけさせることだと思います。」

この写真集で、一つ、大切なものを見つけられた気がします!

(よ)

書籍紹介ー今橋愛さん「としごのおやこ」

今橋愛さんの第三歌集。多行書きで、57577とは別の切り方をする特徴ある作風の今橋さんですが、とくに今回は育児、子どもここちゃんとの歌がほとんどで、これまでとは少し違う歌集となっています。
※本文では縦書きなので、印象が違うかも知れません。ご了承ください。

あかるいみらい
あかるいみらいに立っている
じめんをふんで ぼくはあるきぬ

わたしうむの、うむよ
はねをぬいて
せかいを

うまれたまちで あかちゃんをうむの。

ママ5才
ここは4才
おかしいね。
かささしていく
としごのおやこ

—ひらがなや甘い雰囲気の漂う作風の今橋さんですが、被写体との化学反応で、まるで
こどもが稚拙に語りかけてくる様な印象を受けます。
しかしそうなるのは偶然ではなくて、子を持つ母の多くは身体と、心の奥の方まで子どもの世界に取り込まれる。一体になるような事が多いのではないでしょうか。
ママが5才。おかしい。でも、おかしくない。同じ身体なんじゃないかと思うくらい近くにいるし、物理や時間を越えた存在として共に生きるここちゃんの魔力は、どんな子どもも、最初から持っている神秘なのではないかと思います。傘の下、2人だけの世界を歩いていく様が目に浮かびます。

ここちゃんの髪の毛は
クリームブリュレや
カヌレのようなにおいがするよ

ここちゃんは全身で表現するから
すきにならずにいられないです

「4月からピンクの帽子のここちゃんです!」
おかあさんはさみしいのです。

おいかけて
とととと と とりあるいてて
まえぶれもなく
とぶ
きゅうに ぱっと

—実は、単語や出来事自体は驚くほどシンプルだと思います。難しい用語もなく、目の前を直球で描写している。
子どもって甘い匂いがする。全身で表現するよね。学年あがって寂しい。
もはや子育てあるあるのような気すらします。
それが何故か、圧倒的な感情量と、リアリティと詩情をもって迫ってくるのが不思議です。

字余りによって溢れる感情。稚拙にもみえる語り口によって、その衒いのなさ、無防備なまでの率直さが表現され、短歌のリズムが改行で更にリズムを付加されて生まれる音楽性など、全てが一本の愛おしい日々に集約されていきます。

もうたりひんことをかぞえるひまはない
このひとたちと生きていきます

じてんしゃをこいでいるんだな
このまちで
それが全然いやじゃないんだ

工場のドアをあけると
じいちゃんばあちゃんがいて
そうだった わたしの場所は

うれしいのは
ももがすきな子にももをむき
おいしいと言って
たべるの みること

—たまに、ここちゃんではなく、自身の描写が出てきます。それは、ここちゃんとの暮らしの中で更新されていく自身の姿。
理屈や発見という様な、大人のやり方とは違う。苦労しながら世話をしているようで、実は無条件に自身を肯定してくれる巨大な存在、ここちゃんへと還元されていく感じを受けました。直球、そのままの言葉で、正面から、こちらの心もこじ開けられてしまうような力を感じます。

—帯に、「すべての子どもを産み子どもを喪くした人へ」
という言葉があるので、ネタバレにはならないと思います。
この世に生まれてこられなかった、ときちゃんの話です。

ポリープの話をきいて、そこからさき 心ぞうの音がしない。え、なにそれ

生まれてくるだけで
そだてて産むだけですごいことやのに わすれてしもたんか

「にじゅういちがつに ときちゃんうまれるの?」
行きたいね。
にじゅういちがつに
みんなで

急に改行がなくなり、素の関西弁が出てくる。ひらがなのここちゃん的文体と、あどけないその姿。
名状し難い感情の乱高下、しかし流れる日常、しかし何もかも違う。
この連続は、間違いなく歌集という連続した中でしか生まれない世界で、一読いただくしかないのだと思います。

途中の文章、日記も、等身大の生活を表していて素敵でした。

また
写真 石川美南
題字 COCO
装幀・イラスト 花山周子

となっていて、石川さんも花山さんも歌人の方です。COCOは、おそらくここちゃん。
等身大、手に届く範囲の世界を、かっこつける事もなく、しかし大きな感動を持って、驚くほど鮮やかな形で表現するというのは、本当に短歌・歌人の力なのだと思います。

子どもを持つ方、これから持たれる方に響くことは間違いないのですが、日々を新鮮に形にする力、生き方とともに変化する歌人の立ち方。すごく美しくて清々しい。全ての方にお勧めできる一冊です!

(よ)