箒づくりとお店にかける想い

【初期衝動】「大切なものを、ぽろぽろと落としていってしまっている気がした。

高校に入って、美術が好きになり始めた頃。たった1人の美術室で、自分を介して世界を表現しようと考えた時、あまり明るいものが湧いてこない事には気がついていた。多分、今も変わらないと思う。

物心ついた頃から、世間はずっと不景気と言われていた。人間のわがままで地球の環境は破壊され尽くしてしまうだとか、服1枚買うにも、コーヒ一1杯飲むにも、海外の過酷な環境にいる誰かから奪わないといけない。政治は汚ない。教育は終わりだ。(いま思えば根も葉もない話だけれど)色々な事を聞いて、世界は明るいとは言えないだろう。という見方が、自身を暗くしていた。

高校生の頃は、ブランクーシが好きだった。横浜美術館の、広い広いホールの中に1つ立っていて、巨大な空間を我が物としていた「空間の鳥」は忘れられない。

※フィラデルフィア美術館HPより
https://www.philamuseum.org/collections/permanent/51057.html?mulR=870117842%7C14

欧米圏では寄付や慈愛の精神が強くて、そればかりでは無い事も後から知る。けれど、世界の不平等を受け入れられなかった僕は、一部の富裕層や貴族が支え、発達してきた美術史を受け入れられなくて、大好きな美術もブランクーシも、嫌いになり始めていた。

 

「世界が美しくないとしても、その理由は明白に分かる。」

そんな中、大学で出会ったのが民俗学だった。母校にはかつて、宮本常一という巨人がいて、その教え子や、関係した人達が何人もいた。

世界が抱えている不都合な事情をどうにか出来るかと言うと、どうしようもない気がしていた。けれど、相澤先生が何度も言っていた言葉に「学問は過去と、少し先の未来を知るためにある」という言葉があった。

格差、孤独、環境、分断、様々な問題に答えを出せるか?民俗学の答えは「YES」なのだと思っている。
何故、車に乗って空気を汚し、ゴミを出さないと暮らせないのか?人はなぜ、命が危険になるほど時間に終われるのか?なぜ人は助け合えないのか?歴史には、そこに到る過程と理由が全て刻まれている。
(写真は、学生の頃はじめて調査らしきもの?に向かった、秋葉山です。長野と静岡の間辺りにある、秋葉信仰の総本山。水窪も、いいとこだった…田舎過ぎて、バスの運転手さんに、何しにきた?って聞かれた(笑)

先人の多くは、土地の中で、自然に倣いながら生きる方法を知っていたし、過酷な環境の中で精神的にも、物理的にも助け合う仕組みを作り、生き抜いてきた。もちろんそれらは完璧ではなかったけれど、優れた点はすごくたくさんあった。そして、明治維新や、戦争、経済成長を経て、その知恵や経験の殆んどが失われていった。という事も知った。

手放しに、綺麗なものや楽しいものや、自分だけの幸せを求めるのはあまりに狭小に思えて、とにかく、先人に学ぶ。という事をしたいと思っては、民俗資料室に入り浸ったり、関野先生からは世界中の人々の暮らしぶりのこれまでとこれから。問題解決の為のアクション。大きな力への抗い方を学んだ気がします。

「まだ僕達は、全てを失ったわけではない。」

工芸が美しいと思えるのは、ただ造型的に優れているというよりは、そこに刻まれた歴史、敬意、思想が凝縮されて、必然的な所まで研がれているからだと思っている。

歴史あるものを作ると言う事は、自然の理を身体に取り込み、そこに寄り添い、循環させてきた先人の生き方に学び、それを再現して新たに形にする事の様に思う。
民俗に関わる研究所に一度入れてもらった事もあったけれど、大切に思うものがあるなら、調べるよりも自分の手で、1つでも残すべきだと思っていた。道具は渡した人の暮らしの一部となり、歴史となる。こんなに揺るぎない表現方法と、残し方は無いと思う。

そんな時、箒と出会います。

【実践】 そのために出来ることは1つだった

大学の民俗資料室でアルバイトをしていた時、箒の展示会があり、師匠にあたる柳川芳弘さんに出会う。とても美しく箒だったし、箒はいいぞ。と思った。
自然に近くて、民衆的な道具で、現在でも使われる。払う、清める、整える、慈しむ。古来の暮らしや考え方が凝縮されている。当時は、芳弘さんがすごくいい人だったので、調査の1つのノリで習いに行ってしまったけれど、いま思えば、出会ってしまった。という感じがある。
すごく魅力的で、価値があり、これからの世界に必要とされるはず。それなのに、注目している人が極端に少ない。自分だけには、その価値が見えている。それらを身体に取り込む為の若さと時間もあると思った。選択肢は1つしか無かった。
つい最近、ものと人の文化史シリーズから「掃除用具」が刊行されたけれど(おめでとうございます!)もともと箒は、多くが使い捨てられる荒物だった。(とはいえ、古代・中世くらいまでは聖性が強い、と、上記の本で思い直す…)
直接聞いた限りでは、良く言っても、昔のいい食い扶持、位の言い方をする人にはしばしばあって、文化的なもの、という見方は、当事者周辺の意識にはなかったんじゃないかと思う。(自分は民藝にも、まだ出会っていなかった)

「工芸とカンパーニュ」

そこをいくと芳弘さんは、現役時の腕の良さか、京都の風土か、好きが高じてか分からないけれど、とにかく「伝統工芸品」を目指して作っていたように思う。すごくかっこいい。尊敬している。けれど、美術の道を敢えて踏み外してきた身の上としては、そのルートにそのまま乗る訳にも行かず、素朴で田舎らしい、しかし頑丈。というやり方を志向するようになった。
※赤や黒の針金で作られたのが芳弘さんの箒
自分は、折衷してカンパーニュ(田舎風)っぽい箒と自称しています。
手箒は、座敷→板の間→土間→庭と、だんだん下ろしていくので、長い方は何十年も使う道具。デリケートな畳を傷つけずに、細かな凸凹を隈なく掃除をする精度が求められます。
かつての精度、芳弘の高めた技術、田舎らしい素朴さや頑丈さを備えた箒を作っていきたいと思っています。それでも、もっと先があると思った。

【描く先】世界を肥沃にする幾つかの道

工芸、民藝、クラフト、言い方は難しいけれど、手仕事の中に僕達が学ぶべきヒントと、それを身体に取り入れる方法、そして未来を作る力があると信じているし、箒を作り始めて十数年、それは揺らぐ事はなかった。

それでもまだ美術の力は信じていて、あらゆる表現は、あらゆる別の表現に換言可能だと思っている。つまり、工芸はあらゆる芸術が伝えようとした言葉を伝える事が出来る。反対に、僕が手仕事で伝えようとする言葉は、散文でも、映画でも、絵画でも、音楽でも、何でも可能なはずだと思っている。

ただ、得意な守備範囲はある。食の問題を解決するなら食で表現した方が早いし、抽象的な事柄は言葉が早い。道具は、歴史と自然、具体的な生活に親和性が高い、最も具体的なメディアだと思う。
2010年代の「暮らし系ブーム」は、仕事としてはありがたいものではありながら、工芸にバイアスをかけてしまう面もあった。「丁寧な暮らし」を伝播・実現することはできても、人生や歴史や世界全体を包括する事に限界も感じていた。

 

「両輪がそろって成り立つのが世界」

そして、道具が最も具体的なら、最も抽象的な表現物は、言葉だ。科学が論理で成り立つのなら、芸術は詩情で成り立つ。工芸も両輪で成り立っていて、ユースフルという要素を綺麗に取り除くことが出来るとしたら、残るもう一本の柱は詩情であると思う。
そんなぼんやりとしたイメージから、詩歌に惹かれていった。特に、古代からの系譜を継ぐ短詩系文学はハイコンテクストでありながら前衛でもあり、生々しく、フレッシュで、リアルだ。(脇道にそれるので詳述しないけれど、詩歌に対して美術・工芸という概念は明治以降に輸入された考え方で、伝統というフレームもさほど古くはない。)

具体的な生活の変革が着地点だと思っているので、奥さんの実家という事もあり、生き方を再構築するために北海道に引っ越した。そこで、ご縁もあり、奥さんがショップを、そしてそこにアトリエを構えられる事となった。

 

「生きるための道具と詩歌」

これを、お店のコンセプトにした。工芸の核心に詩情(ポエジーとか、侘び寂びとか、美とか、様々な言い方がされている何か)があるとしたら、それらを生々しい形で取り出した言葉を提示したい。抽象性が高く観念的、しかし歴史と誇りある本質が、形を持たない言葉として漂っているとしたら、それらを、日々の道具・必需品のように携える事が出来たら、理想なのではないか。

箒と、詩集・歌集・句集が並ぶ店、というのは全国的にもかなり奇妙な存在なのだけれど、自分の方法論でいくと、必然的な構成となっています。100年、200年先に、もっと美しい世界となる事を信じて、粛々と作り続けていきたいと思っています。