書籍紹介ー石亀泰郎さん写真集「ふたりっ子バンザイ」

今橋さんの歌集に続き、子ども関連の本の紹介です。

50年以上、子どもの写真を撮り続けた石亀泰郎さんの、最初の写真集の復刊です。戦中に生まれ、小学生の頃は農村に引き揚げ、中学の時は北海道の叔母の養子になり、子どもの頃は寂しかった。という石亀さん。

『ふたりっ子バンザイ』は、本当に日常の風景。ミルクを飲む。寝る。三輪車を押す。笑う。押し合う。泣く。走る。当たり前の日々が綴られています。

ネットに溢れるような派手な夕日や、「奇跡の瞬間!」の様なシーンは1枚もありません。普通の日常。ただ、この2人にとっては生きている事がどうしようもなく刺激的で、真剣で、かけがいのない事なのだと気付かされます。街にいる子ども一人一人が、全ての大人が、この世界を持っていたのだと教えてくれる。

本当は毎日が、今の一瞬が、私達の奇跡の瞬間なのだと思います。

ふたりっ子バンザイ!!

生命バンザイ!

あとがきよりー

「今の子どもたちを見ていて思うのは、自然の中で育つ機会をもっと増やしたほうがいいということです。もう一つは、子どもたちに自分自身で何かを見つけだしてくる癖を身につけさせることだと思います。」

この写真集で、一つ、大切なものを見つけられた気がします!

(よ)

書籍紹介ー今橋愛さん「としごのおやこ」

今橋愛さんの第三歌集。多行書きで、57577とは別の切り方をする特徴ある作風の今橋さんですが、とくに今回は育児、子どもここちゃんとの歌がほとんどで、これまでとは少し違う歌集となっています。
※本文では縦書きなので、印象が違うかも知れません。ご了承ください。

あかるいみらい
あかるいみらいに立っている
じめんをふんで ぼくはあるきぬ

わたしうむの、うむよ
はねをぬいて
せかいを

うまれたまちで あかちゃんをうむの。

ママ5才
ここは4才
おかしいね。
かささしていく
としごのおやこ

—ひらがなや甘い雰囲気の漂う作風の今橋さんですが、被写体との化学反応で、まるで
こどもが稚拙に語りかけてくる様な印象を受けます。
しかしそうなるのは偶然ではなくて、子を持つ母の多くは身体と、心の奥の方まで子どもの世界に取り込まれる。一体になるような事が多いのではないでしょうか。
ママが5才。おかしい。でも、おかしくない。同じ身体なんじゃないかと思うくらい近くにいるし、物理や時間を越えた存在として共に生きるここちゃんの魔力は、どんな子どもも、最初から持っている神秘なのではないかと思います。傘の下、2人だけの世界を歩いていく様が目に浮かびます。

ここちゃんの髪の毛は
クリームブリュレや
カヌレのようなにおいがするよ

ここちゃんは全身で表現するから
すきにならずにいられないです

「4月からピンクの帽子のここちゃんです!」
おかあさんはさみしいのです。

おいかけて
とととと と とりあるいてて
まえぶれもなく
とぶ
きゅうに ぱっと

—実は、単語や出来事自体は驚くほどシンプルだと思います。難しい用語もなく、目の前を直球で描写している。
子どもって甘い匂いがする。全身で表現するよね。学年あがって寂しい。
もはや子育てあるあるのような気すらします。
それが何故か、圧倒的な感情量と、リアリティと詩情をもって迫ってくるのが不思議です。

字余りによって溢れる感情。稚拙にもみえる語り口によって、その衒いのなさ、無防備なまでの率直さが表現され、短歌のリズムが改行で更にリズムを付加されて生まれる音楽性など、全てが一本の愛おしい日々に集約されていきます。

もうたりひんことをかぞえるひまはない
このひとたちと生きていきます

じてんしゃをこいでいるんだな
このまちで
それが全然いやじゃないんだ

工場のドアをあけると
じいちゃんばあちゃんがいて
そうだった わたしの場所は

うれしいのは
ももがすきな子にももをむき
おいしいと言って
たべるの みること

—たまに、ここちゃんではなく、自身の描写が出てきます。それは、ここちゃんとの暮らしの中で更新されていく自身の姿。
理屈や発見という様な、大人のやり方とは違う。苦労しながら世話をしているようで、実は無条件に自身を肯定してくれる巨大な存在、ここちゃんへと還元されていく感じを受けました。直球、そのままの言葉で、正面から、こちらの心もこじ開けられてしまうような力を感じます。

—帯に、「すべての子どもを産み子どもを喪くした人へ」
という言葉があるので、ネタバレにはならないと思います。
この世に生まれてこられなかった、ときちゃんの話です。

ポリープの話をきいて、そこからさき 心ぞうの音がしない。え、なにそれ

生まれてくるだけで
そだてて産むだけですごいことやのに わすれてしもたんか

「にじゅういちがつに ときちゃんうまれるの?」
行きたいね。
にじゅういちがつに
みんなで

急に改行がなくなり、素の関西弁が出てくる。ひらがなのここちゃん的文体と、あどけないその姿。
名状し難い感情の乱高下、しかし流れる日常、しかし何もかも違う。
この連続は、間違いなく歌集という連続した中でしか生まれない世界で、一読いただくしかないのだと思います。

途中の文章、日記も、等身大の生活を表していて素敵でした。

また
写真 石川美南
題字 COCO
装幀・イラスト 花山周子

となっていて、石川さんも花山さんも歌人の方です。COCOは、おそらくここちゃん。
等身大、手に届く範囲の世界を、かっこつける事もなく、しかし大きな感動を持って、驚くほど鮮やかな形で表現するというのは、本当に短歌・歌人の力なのだと思います。

子どもを持つ方、これから持たれる方に響くことは間違いないのですが、日々を新鮮に形にする力、生き方とともに変化する歌人の立ち方。すごく美しくて清々しい。全ての方にお勧めできる一冊です!

(よ)

小津夜景さん『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』

『フラワーズ・カンフー』などでも話題の、小津夜景さんの、漢詩の翻訳+エッセイの本・・・
と、言ってみたものの、おそらく、多くの方が先入観として持つ漢詩やエッセイのイメージを清々しく、刷新してくれる本です。

私自身がそうでしたが、漢詩というと、やや硬くて、重たそうなイメージ。エッセイには、ライトに日常を心地よく綴るというイメージがありました。
敷居が低いと聞いて入門書のようなイメージを持つ方がいたら、それは全くの思い過ごしで、本当に心から魅力的な詩集として、漢詩の数々が立ち表れてきます。そして、小津さんの語りを通して、気づけば文学の深く大切な所に触れてしまう、飛躍力のある本だと思います。

小津さんの俳句の力を知る方には説明不要ですが、小津さんの紹介する漢詩はとても軽やかで、生きる事へのまなざしに溢れています。それらが、フランスでの生活や日々の思考のエッセイと境なく融合していて、今の僕たちでも、手に触れるように実感できる驚異的な表現力に満ちているように思いました。エッセイにも多くの詩歌が引かれていますが、それらが小津さんの圧倒的な知識、思索、感性でひとつなぎになって、全体として詩形を越えた一つの詩を読んでいるような気になります。とても、漢詩+エッセイという言葉だけでは収まり切らない作品です。

タイトルにもなっている、冒頭の一節より

1, カモメの日の読書

かぼそい草が
かすかな風にそよぐ岸
帆柱をふるわせる夜船に
わたしはひとりだった

満点の星は
地をすれすれまでおおい
ひろびろと野が見晴らせる

黄金の月は
波にくだけつつきらめき
ゆったりと河が流れていく

世に出るのに
文才などなんの役に立つだろう
官職にしがみつこうにも
いまや齢をとりすぎてしまった

あてもなくさすらうわたしはまるで
天地のあわいをただよう一羽のカモメだ

(杜甫「旅の夜、想いを書く」)

なんとなくフランスにやってきて、国内をあちこち移動しているうちにどんどん貧乏になって、それでも日本から持ってきた本やCDを売り払って食いつなげるうちは良かったけれど、そのうち売るものもなくなり、ああこの先どうやって生きてゆこうと夫婦で困っていた。するとそこへ、
「うちだ雇ってあげるから来なさい」
と声をかけてくれたひとがいた。」

・・・などと、ふいに引き寄せてくれた人、その人も流れ者で、いくつかの国での博士号までもっている不思議な人に出会い・・・と、漢詩や俳句に思いを馳せながら、世界を掘り下げていきます。本当に自然に、詩歌を身体の中に携えて生きている方なのだと思います。読んでいくと過去の先人、国内外の文豪、語感、対句、集句、中国の世界観、狂歌や遊び、戦争と言葉、ついには初めてのストリートファイト(!)の話まで、色々な知識も入ってきます。付録のノワール論なども、とても面白いです。

詩歌に携わる方にも、そうでない方にも、一度は触れてほしい一冊!

書籍紹介ー小佐野彈さん「メタリック」

話題の一冊。装丁、鈴木成一デザイン室。まず目を引く表紙とテクスチャです。

帯には「オープンリーゲイとして生きる自分の等身大の言葉を、短歌という「31文字の文学」で表現する」
とあります。

家々を追われ抱きあふ赤鬼と青鬼だつたわれらふたりは
ほんたうの差別について語らへば徐々に湿つてゆく白いシャツ
ぬばたまのソファに触れ合うお互いの決して細くはない骨と骨
赤鬼になりたい それもこの国の硝子を全部壊せるやうな
どれほどの量の酸素に包まれて眠るふたりか 無垢な日本で

第60回短歌研究新人賞でも話題になった、連作です。
赤鬼、青鬼。思い出すのは、絵本の「泣いた赤鬼」でした。
人間と仲良くなりたかった赤鬼は、色々人間をもてなそうとしますが、上手く行かない。
ついには、青鬼が(赤鬼に黙って)犠牲になり人間と赤鬼を繋いで、さらに赤鬼に迷惑がかかるから。と、遠くに旅立ってしまっていた。という話。

二首目。
本当の差別。とはなんだろう。と、多くの人が思うかと思います。
単純な強さ、切り口、質の問題、など色々想像したけれど、なかなかたどり着けない構造にある様に思います。しかし実体は、真理のように語れるものではなくて、シャツの湿りのような、体感的なところにあるのだと思います。

五首目
表題にもなっている無垢な日本。ふたりにとってはとても呼吸のし辛い世界という意味かと思います。

広告などではセンセーショナルに語られがちなのですが、全体は穏やか。自己抑制的、でも、暗くはない印象です。
独裁者になって人を罰してやろう。じゃなくて、物語にいるような鬼になって、硝子を壊してやろう。という抑制。
無垢な日本、というのは、なにもないという事で批判的にもとれるし、辞書的には肯定的な意味にもとれます。

YouTubeひらけば画面いつぱいに廃墟。そろりと起きてシャワーへ
こんなにも明るい夜に会ふなんて今日のふたりはどこかをかしい
亜麻色の髪つんつんと逆立ててぬるい夜風に君が刃向かう
お茶割りで夢を語らふくちびるに蛍火ほどの微熱はうまれ

タイトルにもなっている「メタリック」は大好きな連作でした!長めながら、恋人に会う一日の流れが緻密に描写されています。
都市の硬質感、寂しさを重低音にしながら、全体的には、つられてウキウキドキドキする展開・・・段々気持ちが高まっていく、ドライブ感が楽しかったです。
(新宿デート、したくなりますね・・・(笑)

抑圧の名残り まあるくやはらかで少しぴりりとするバインミー
鬼の棲む島といふ島焼き払ひやつと安心ですか 祖国は
つながりは夜に危ふく保たれてユダはイエスのかたへに眠る

などは分かりやすいですが、身の回りの問題を越えて人類や国家、広い視点への問題意識や愛情が基盤にあるようにも思います。世界の不条理や歪み、その悩みを示唆するような歌はたくさんあるのですが、やたらに噛みついたり、投げやりになるような歌はほぼ無いように感じます。本当に強い、花のようなお方・・・

ほぼ同じ青の短パン脱がしあひながらおやすみ、ドロシーと言ふ
軋むほど強く抱かれてなほ恋ふる熱こそ君の熱なれ ダリア
弓張のひかりのなかを黒髪はたゆたひながら結はれゆきたり

ストライクに、美しい・・・という歌も多くて、好きでした。
など殆んど、小佐野さんの視点や、歌の美しさについて書こうと思ったのですが、頭のもう片方ではマイノリティの抱える問題や、現状、自身の意識について向かい合わざるを得ませんでした。歌人個人の体験を通して、世界の深いところ、広いところにまで導いてくれる、短歌の強さも再確認した次第です。とはいえ、決して硬くはないので、たくさんの方が読んでくれたらなぁ・・・と思います。(よ)

書籍紹介ー「俳句という他界」関悦史さん(邑書林)

関悦史さんの評論集です。

三橋鷹女、田中裕明、安井浩司、池田澄子、さんら、作家論も刺激的なのですが、何と言っても表題の俳句の他界と関連する、「俳句の懐かしさ」「断章」がエキサイティングかと思います。

フランス現代哲学、シュールレアリスムを始めとした美学、民俗学的知識など、広い知見と思索の到達点として、関さんの俳句がある事が分かります。

「俳句は自己・自分語りをそのまま持ち込むことに適していない。(中略)メタレベルの自己を包摂しつつ、しかし個体性からも遊離しないという二重性の中で生成し続けるものなのだ」

「言語は、虚に居て実をおこなふべし。実に居て虚にあそぶ事はかたし」『本朝文選』

「「俳諧」にはもともと「滑稽」の意味があるが、この二重性はユーモアと同じ構造を持っている。(中略)自己を最低限、他者性へと開くのが「季語・季題を入れること」という約束事なのである。」

季語・季題を入れるという事は、他者・他界への道を開く事である。という話です。それは連歌の歴史もある訳ですが、その自・他を繋げる所に、踏み込んでその「聖性」についても触れています。

「聖性とは、この世だけて完結した価値観や、個人の実利的合目的性を超えたものがこの世に介入したときに生まれるものである。」

ただの物理的な現実にも、個人的な主観捉われない新しい次元を開いてくれるのか季語、という事かと思います。

「俳句は飛躍と断裂の驚異によって自己や因果律を離れ、その上で他界的なものを含みつつ再統合を果たすものなのだ。俳句はジャンルの出発当初から必然的に「前衛」であり、それゆえに懐かしみを表出するものだったのだといってもよい」

とにかく、この宣言と、深い俳句愛にしびれました…!

たくさん引用してしまいましたが、実は、ここまででまだ開始15ページ。

本当にエキサイティングな評論集です。

(難しいかな?と思われがちですが、短い章が多いので、割とさくさく読めました。)

評論の感想、というのも難しいのですが、色んな方に見てもらいたい!と思い、投稿してみました。

是非是非、お手にとってご覧くださいませ!

(吉田)

書籍紹介-地上で起きた出来事はぜんぶここからみている 河野聡子さん

『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』

ヴァーバル・アートユニット「TOLTA」

河野聡子さんの詩集です。

山本浩貴さんによるデザインが、かなり特徴的で、配置、構成自体にリズムがあって、朗読を聞いている様な印象を受けました。

「レイアウトは単なるアクセントや進行上の見栄えの問題を越えて、作品内部に張り巡らされた論理そのものと関わり合い、ひいては作品内論理の更新さえ引き起こすものとして考えることができます。」

-付録小冊子の座談会も、かなり濃密になっています。

ぼくらは羽ばたきを追って歩くふりをする

きょうはキャンプ場までずっと歩かなくてはいけないし

あしたはもっと遠くまで行かなくてはいけない

火星の水を撮影した探査機のように遠くまで

今やぼくらは歩けなくなるその日までずっと歩かなくてはいけない

ー「歩く人」より

日常世界の、時間や空間とは別の空間から言葉が語られている様で、舞台を見ているような印象も受けます。

紙上の構成と密接に繋がっていて、こんなにブログで伝わらない書籍も無いのではないでしょうか…!!!

また、河野聡子ら4名のユニットTOLTAは、500m美術館での展覧会にも参加されているようです!

併せて、ご高覧下さい!

◆◆◆

500m美術館Vol.26「最初にロゴス(言葉)ありき」

<出展作家>

港千尋(写真家/著述家/あいちトリエンナーレ2016芸術監督)

高橋喜代史(アーティスト)

文月悠光(ふづき ゆみ/詩人)

渡辺元気(郵便局員)

TOLTA(山田亮太、河野聡子、佐次田哲、関口文子、ヴァーバル・アート・ユニット)

居山浩二(アートディレクター/グラフィックデザイナー)

朴炫貞(美術家)

池田 緑(アーティスト)

ワビサビ(グラフィックデザイナー)

樋口雅山房(書家)

<開催概要>

会期|2018年4月27日(金)~2018年6月27日(水)

時間|7:30~22:00

会場|札幌大通地下ギャラリー500m美術館

住所|札幌市中央区大通西1丁目〜大通東2丁目(地下鉄大通駅と地下鉄東西線バスセンター前駅間の地下コンコース内

主催 札幌市

書籍紹介―雪舟えまさん「はーはー姫が彼女の王子たちに出逢うまで」

「はーはー姫が彼女の王子たちに出逢うまで」朗読&サイン会
日時:4月26日(木)19時~20時
場所:がたんごとん
http://gatan-goton-shop.com/
札幌市中央区南1条西15丁目1−319 605号
参加費:無料

も控えております。一足先に、歌集についてご紹介させてください!

―恋は盲目、と言いますが、雪舟さんの世界は恋と魔法と空想、その先の世界へどんどん旅立っていく感覚がありました。閉ざされた世界にわき目もふらず進んでいく様なドライブ感と、直進性ゆえの恐さのようなものもちょっぴり感じました。

フライ追うように走って しあわせだ、しあわせだって退路を断って
水盤に満月ひとつ持ってもう動けなかった幸せでした
立てないくらい小さな星にいるみたい抱きしめるのは倒れるときだ

―本当に夢中になる、という事は、帰り道がなくなるという事なのかも知れません。命がけ!で生きています。

酔いました 何度も何度もきみを産み何度もきみにお嫁にゆくと
俺の心はきれいじゃないなんて上等だ わたしは空に目くばせをした

―また、現実以外の世界とも繋がっている方です。巫女的、というよりは、物語や魔法に近い。恋のために何度も転生する。雲の上に、どんな友人がいるんでしょう・・・。上等だ、と、わざと悪ぶった言い方が、逆に親しさを強調します。

タッパーの跡がうまそうとご飯を君よろこべばほんとうに夜
わたしには代われないおつかい抱いて夕立のなか蛾は歩きおり

―でも、すごく現実的な描写も多くて・・・魔法的な歌と相互に強め合う感じも受けました。
夜のご飯はタッパーですよねー!雪舟さんの本当の夜とは、「君」がいて、ともに過ごし、ささいな事を楽しんでいける日々のことなのだと思います。得難い喜び・・・
蛾は蛾で、それぞれの命と使命があって、必死に生きている。雨の蛾、というのは渋くて、近代短歌にもありそうなモチーフですが、使命や命、じゃなくておつかい、という当たりがすごく雪舟さんらしいカジュアルさや視点を表しているなぁ・・・と思いました。

野のような家の姉妹は眠るとき赤い小さなとぐろを巻いた

―カフカをほうふつとさせますね・・・ちょっと薄暗さや異界のような怪しさもありながら、丸まって眠る人のビジュアルもリアルに想像しました。

夏布団わたしのパンツがみえたならそれはおみくじ、いつも大吉
僕たちは大当たりだ何があっても音もなくすぎてゆく夜にも
ああっご飯 二人になると落雷のように食事はおもいだされる

―二人だけの、すごく狭い世界。その中がすごく濃くて、満たされていて、大吉、大当たり、など、大ぶりな全肯定(笑) 無菌空間のようにプレーンな幸せを詠っています。

目ざめたら息が乱れていた私自由になるのかもしれなくて
ふたたびの思春期これはススン期だ息するだけで僕はかがやく
自転車の重さも軽さも楽しくて半月のような町をゆくのさ

―暗さはないものの、解放されて新たなところへ旅立つ志向も多くあります。どこへ?というと、やはり雪舟さん的な新しい地平を感じられて、すごく魅力的な世界像を想像します。ススン期の世界・・・行ってみたい・・・
半月のように、普段は見えない領域が大きくあって、ふわっ、と向こう側に行ってしまうような感じがあります。

・・・歌集に、ネタバレ、というものがあるか分かりませんが、4章、「そして、はーはー姫は彼女の王子たちに出逢う」以降は、個人的には、そっちかー!!!というくらいの大転換だったので、詳細は控えようと思うのですが・・・刺さったものだけ引いておきます!

溶き卵のようにひろがる夕やけにたったひとりの眼鏡に会いに
股ぐらへミートボールの軌跡きらきら光るのを声も出ず 春

―現実、恋、魔法、空想から、はーはー姫が王子たちに出逢うまで・・・ゆらぎながら、旅立っていく流れが、一本の映画を見るように楽しめました。

こんなに書いても全然書ききれない、魅力的な歌集です!
星四朗さんのあとがきも、情熱ほとばしっています。
ぜひぜひ、お手に取ってご覧くださいませ!

書籍紹介ー劉暁波・霞 詩集「牢屋の鼠」「毒薬」「独り大海原に向かって」

劉暁波氏を初めて知ったのは、新聞でした。概ねは人権活動家が国家に捕らえられている。というニュースで、詩人、というのはこの本を通じて知りました。

こんなページを開いてくれる方は、詩歌に関心のある方が多いと思います。そんな方は、詩人は世界について真剣に考え、向き合い、戦っている事も知っているかと思います。これらの本に収められている散文や詩は、彼の活動や言動が、人々の為に活動家として戦った事を強く感じさせます。寧ろ、命を賭して人間の為に戦う事と、詩をつくる事が同じ事だったんじゃないか。とすら思います。

一匹の小さな鼠が鉄格子の窓を這い

窓縁の上を行ったり来たりする

剥げ落ちた壁が彼を見つめる

血を吸って満腹になった蚊が彼を見つめる

空の月にまで魅きつけられる

銀色の影が跳ぶ様は

見たことがないくらい美しい

今宵の鼠は紳士のようだ

食べず飲まず牙を研いだりもしない

キラキラ光る目をして

月光の下を散歩する

ーーーーーーー「牢屋の鼠ー霞へ」

情景としては、冷たく厳しい、静謐と悲しみがあります。でも、絶望や後ろ向きの感じは殆どありません。暗闇の中で美しく駆けるネズミの様に、必ず一閃の希望が描かれています。

また、妻の霞さん、または、荘子、カフカ、ウィトゲンシュタイン、かつての偉人へ向けた詩のシリーズも特徴的です。

冷えびえと空にかかる月のように

それは僕の頭上高くかかっている

きらきらと輝きながら高慢に見下ろし

僕を窒息させようとする

背景に深々と広がった

墓から飛び出してくる幽霊のようだ

君に神聖と純潔を捧げよう

ただ一度夢の中で親密に交わるだけでいい

肌と肌の燃焼など求めないが

視線だけを冷たく染めながら

火焔が蒼白の中に消え去るのを見つめている

空の嘆き悲しむ姿が広漠すぎて

僕の魂の目では見破れない

僕に一滴の雨水をくれ

地面の泥を洗い流すから

僕に一筋の光をくれ

閃きの問いがみつかるだろう

君が一つの言葉を発すると

この扉が開き

夜を家に招き入れる

ーーーーー「牢屋の鼠」妻へ

大きな闇の中にいながらも、世界を、歴史を知り、確実に誰かと繋がろうとしている。詩を書くことで、世界を肯定しようとしている事を強く感じました。

また、大義名分や正義の為、というより、ただ目の前の大切な人の為に戦った人だ。という事も感じます。

元の本は、霞さんとの2人の詩集だそうです。霞さんの「毒薬」とも読み比べると同じ視点を持っていながらも、暁波さんからの強く激しい愛と、そのアンサー。壮大なラブレターとも読めます。

世の中には様々なニュース、政治問題などがありますが、どこにも根本には熱く血の通った人間がいる。という事を思い返させてくれました。

書籍紹介ー「死ぬほど好きだから死なねーよ」 石井僚一さん

北海道江別市出身、北大短歌会在籍中に「父親のような雨に打たれて」で第57回短歌研究新人賞を受賞した、石井僚一さんの第一歌集です。

装丁からして衝撃的!中身はもっと刺激的です。

すごく乱暴な言葉が多い。むしろ、一般的にみて綺麗な言葉の方が少ないかも知れない。けれど、間違いなく剥き出しの感情と、どうにも整理がつかない溢れだす葛藤と愛情が生々しく満ちていて、すごくパンクでリアル。そんな生き様は美しいようにも思います。

遺影にて初めて父と目があったような気がする ここで初めて

これから自殺をするけれど掌に木漏れ日がきらきらしていてちょっとためらう

言葉なく家族とカレーを食べている この辛さは深刻だと思う

 

・・・タイトルにもある通り、「死」という単語はしばしば出てきます。死ぬほど好き。という例えと、死なない。という実際の生存の話が同列に並べられる。すぐしねしね言う命の軽さは現代的とも言えますし、これから自殺、ちょっとためらう、など、コンビニに行くようなテンションで、すぐ隣に死がある。もはや膝に抱えて生きている。という感じすらあって、軽くてふざけているようでいて、自身の生命を軽く軽く扱わざるを得ない、ギリギリの境涯を感じます。

神さま、夢はもう見ませんから、重たくて分厚いまぶたを四つください

たこ焼きのなかには何があるでしょう? たこ、ばか、ぼけなす、あほう、あいしてる。

誤解ではなくて誰もが幸せに暮らしていると確信している

 

・・・生命は、死や絶望と同居している。でも、どうにか希望をみようとしている事もある。神様に頼んでみる。でもそれは夢を見ないという誓いで、開ける事の難しいまぶた。二重に被せるのか、付けたくもないところにも目が開いているのか。普通の人間としている事も諦めているようにも見える。

「たこ焼き器、または便器」という連作もあり、たこ焼きがネガティブなイメージとして出てきます。たこ。というのは、何とも根も葉もない罵声で、ばか、ぼけなす、など、子どもも言わないような言葉の最後に出てくるのはあいしてる。何にも考えたくない、とにかくぐちゃぐちゃしたものが焼かれて固まっている。自暴自棄とも言える自意識の中にも、愛があることを否定できない、あまりにもむき出しな感情の連続です。

 

逆光を背中に受けて微笑んでわずかに揺らぐあなたの輪郭

同時におなじことばを発してドッペルゲンガーだったんだろう ぼくがきみの

・・・自身も、相手も、存在が揺らいでいる。逆光の微笑み。後光だろうか。神々しさすらある誰か。大切な人なのだろうけれど、微笑みかけた時に、その不確定さに気づいてしまう。

ドッペルゲンガーは、みたら死ぬとも言われている。同じ言葉を口にしただけで、自身が相手の幻影だったのかも知れない。と気がついてしまう。しかも、相手を消してしまう存在でもある。だろう。なので、それすら確実じゃない。なんの拠り所もない悲しさがあります。

 

手を振ればお別れだからめっちゃ振る 死ぬほど好きだから死なねえよ

夜になるほど狭くなっていく公園でいつまでふたりでいられるだろう

・・・めちゃくちゃな事ばかり言っているようで、切ない歌が多いです。手を振ればお別れ。当たり前の事。自分はお別れには抗えない。だから、精一杯手を振る。「必死に」など、取り繕う事はしない。ただただ、がむしゃらに、「めっちゃ」で振る。死ぬほど好き。というのは、死とは無縁な安全な世界だからこそ使える、現在的な口語だと思う。しかし、実は自身は死と隣接している事を自覚している。別れたくない。けれど、必死で別れる。修飾語に使えてしまうほど軽い命だけれど、その全てを賭して、相手を愛そうとする、すごく切実な心情を詠っているように思います。

迫りくる夜の様に、不可抗力して寄ってくる闇。その中で、必死に声をあげる、魂の歌集です。

 

書籍紹介ー「サイレントと犀」岡野大嗣さん

安福望さんの絵も素敵な、一冊。
短歌は読まないけれど、素敵なのでこの本は気になっていた…というお客様がいて、とても嬉しくなりました。
これはご紹介したい!

岡野大嗣さんは、『選択と削除』で第57回短歌研究新人賞次席。木下龍也さんとの共著『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』 も話題です。

きれいな言葉を使ってきれいにしたような町できれいにぼくは育った

裾上げを待つ ストⅡのデモ音がやけに響いているゲーセンで

ひとりだけ光って見えるワイシャツの父を吐き出す夏の改札

…すごく日常的な単語や光景。でも、暮らし系というよりは、切実に、生命に迫る方に向いている感じがします。

既製品のズボンを切る中で響く電子音。
会社から帰る父の吐き出される改札。
社会の規格やシステムの不安を匂わせつつも、ノスタルジックだったり、感傷的で、ただの社会批判には収まらない味わいにすごくリアリティを感じます。

カーテンが外へふくらみ臨月のようで中身は4年3組

理科室の三面鏡で先生がぼくを無限に殖やす四限目

宵闇にブルーハワイのベロというベロが浮かんでいる夏祭り

…子ども時代を詠んだ歌も印象的でした。学校のカーテン、よく膨らんでたなー!笑 でも、なんだか不安に感じるのは、母と子という個人じゃなくて、クラスを一絡げにして孕んでいる事。教室は、一律、平等に教育をする場で…I was bornではないですが、生まれるより、生まされる印象を受けました。

三面鏡も、あるある!なんですが 笑 先生が理科室で僕を増やす。というのが、精神的な意味で、クローンや量産を彷彿としました。

ブルーハワイで青い舌になるのは、楽しい思い出もあるけれど、食べる事、身体の色が変わる事、皆が同じ色になっている事、しかもそれを楽しんでいる事…要素が影響し合って、祭り、という、神話や異界の境界という事も重なり、何とも不安な気持ちになります。みんな妖怪にでもなったんじゃないかと思いました。

青いベロみたいに、意味を捉え直すと、ガラッと世界が変わる。その真実味。みたいな事も多く感じました。

ポケットの硬貨2枚をネクターに変えて五月の風のなか飲む

消しゴムも筆記用具であることを希望と呼んではおかしいですか

…100円玉ではなくて硬貨2枚。ジュースではなくてネクター。リアルな肌触りが続く事で、五月の風もただの状況というよりは、その時、その場だけの肌触りを感じます。そして、飲む。音が聞こえるようです。

そういう、日常の細かい引っかかりに、リアリティや生命感を感じる。消すものなのに筆記という枠に入れてもらっている事。とり零されずに拾われる事を、控えめに、おかしいですか?と、問うています。入れてあげたい!そうして救われる事が、希望なのだと思います。

つよすぎる西日を浴びてポケットというポケットに鍵を探す手

えっ、七時なのにこんなに明るいの?うん、と七時が答えれば夏

…岡野さんはこういった、細かい出来事や全てのことに、大切な事、生命に触れるものが含まれている事をとてもよく知っていて、それが自然に提示されています。ポケットの鍵を探すなんて本当に日常的な事だけれど、僕達は、普段から強い西日の様な圧力、何かに晒されていて、抜け出す鍵を探している。あらゆる手段、ポケットというポケットを活用している。手。と、倒置される事で、意のままにならない感じもしますね…ありきたりなのに、そのまま全てが比喩になるような…現実と詩的な比喩、示唆の敷居の無さにも舌を巻きました。
こんなに明るいの?あるある。多分、毎日の中で、自分の「七時感」みたいなものが出来上がっていて、気づいたら変わっているから驚くんですよね。時間を人に喩えるなんて、かなり突飛なはずなんですが、スッと、敷居なく七時が隣人になった感じがします。

安福さんのイラストも、ちょこちょこ入っていて、素敵です!
自分が美術系の人なので深掘りしてしまうんですが、日常のものや道具に、生命感や美しさを見出すというのは茶室以降すごくスタンダードな日本美術の形で…茶室には、歌や絵はいつも一緒にありましたよね。日常的なモチーフの短歌とイラスト、コンビネーション抜群だなー!とか、個人的に思いました。

装丁も素敵なので、是非是非、ご覧においで下さい〜!