書籍紹介-美の実直な探求-鷺沢朱理さん『ラプソディとセレナーデ』

鷺沢朱理さんの第一歌集。美しさとは何か。という問題に、真っ正面から、直球で取り組んだ壮大な歌集です。

その決意、意志はあとがきにも強く刻まれています。

「優美であることはなんら浮ついたことではなく、この病んだ時代に充足の法則秩序としてより強く求められねばならない。」

長塚節からの引用

「今の評論界では只思想の面ばかり論じて、品位といふ事を閑却して居る」

「短歌に美を復権しなければならない。葛原妙子は「歌とはさらにさらに美しくあるべきではないのか」(『朱霊』後記)と問うた〜中略〜私には聴こえる、葛原の悲痛な叫びが。」

真っ直ぐで、強い執着とも言えるほど、美について真剣に向き合っている事が分かります。評論を書き続けているだけあり、深い見識や論理に基づいて作歌をされている事もうかがえます。

歴史を重んじながらも、内容は単なる古典的な形式や、いわゆるありきたりな歌集では決してありません。むしろ、かなり実験的なのではないでしょうか。連作のまとまりは楽章として仕立てられており、章によって屏風絵や源氏物語をモチーフにとったもの、ハドリアヌス帝、徽宗皇帝、聖武太上天皇ら皇帝や彼らの残した世界。ラフカディオ・ハーンや伊勢物語など、幅広い美学的、歴史的見識を駆使して、途方となく壮大なテーマを相手取って作られた、骨太の大作です。(よ)

書籍紹介-美しさと繊細さと過剰-田口綾子さん『かざぐるま』

文語の、美しい文体や、繊細な喩が、田口さんの特徴かと思います。

短歌研究新人賞受賞作「冬の火」では

あのひとの思想のようなさびしさで月の光がティンパニに降る

角砂糖ゆるゆるほどけていく春の夕焼け小焼けでもうわからない

など口語でセンチメンタル、繊細で儚い印象です。月の光、夕焼けなどの描写に歌の大半を使い、月の光、ティンパニ、ゆるゆる溶ける角砂糖、など、柔らかなモチーフが調和を持って並んでいます。

胃の底に石鹸ひとつ落ちてゐて溶け終はるまでを記憶と呼べり

あいまいに呼気ふこみて紙風船、まるき虚空を打ち上げたれど

など、記憶、紙風船など、一つのものの描写に巧みな喩、繊細なイメージを奥深く籠める美しさがあります。

おもしろいなー!と思ったのは、その描写力と観察力が、過剰に働いている所です。

炊飯器 抱くにちやうど良きかたち、あたたかさとて米を炊きたり

フタバスズキリュウとふ文字を追ふときに視界の中を横切るキュウリ

など、炊飯器、フタバスズキリュウの空見、などが、何故ここまで叙情的になるのか…!マジカル!

“納得の牛丼”といふレトルトのいづこに納得すべきわれらか

関心は未練に変はる二年間で一度も購はざりし厚揚げ

昼休みには目を閉ぢ思ふわが部屋の冷凍庫なるハーゲンダッツ

レトルト、いまいちだなぁ〜。厚揚げ、二年間買わなかったな…。ハーゲンダッツ食いてぇー。など、この上なく日常的な話題を、この文体で語るユーモア!すごく共感してしまいます。

ぐでたまとひとはよぶなりうつぶせにだるさのままに寝そべりをれば

など、もの凄くオフビートな事になっていたりします。ここまで現代的、軽い話題でも、文語にはこだわる。ここは、短歌の歴史への愛情なのかなぁ。と思いました。重たくて重厚な近代短歌のイメージ、背景を軽々と遊んでしまうのは、俳諧のような心意気も感じます。

美しく、ユーモラスで、クラシカルさや、現在的な共感も多く…!すごく多面的で個性のある歌集です!

表紙の「ぐ」が少し変形している辺りにも、潜ませたユーモアがのぞいている気がします。

(よ)

書籍紹介ー極限の希薄さと希望ー 西村曜さん『コンビニに生まれ変わってしまっても』


刺激的なタイトルと表紙の歌集です。なんだそりゃ、と思うかもしれませんが、あとがきには
「これはわたしの第一歌集です。タイトルについて、人間がコンビニに生まれかわってしまうことは、ままあるとおもうのです。」
とあります。

ここで、コンビニに生まれ変わる。という事が、冗談ではなく本気で言っていること。また、生物が無機物を越えて人工的なシステムに生まれ変わるというファンタジーの話ではなくて、コンビニ的な何かに、身も心も洗い流されてしまう。というような意味なのだと分かります。更にその危機感が、コンビニ依存というレベルではなくて、生き物として(もはや有機物、実体というレベル)の根本からまっさらに奪い取られる。というラディカルかつかなり至近距離の危機感として表現されている。という事だと思います。
収録された歌はその視点が色濃く反省されています。

百均で迷子になってしまってもこれぜんぶ百円だとおもって走れ
そばにいて。バールのようなものがいまバールに変わるからいまそばに
玉ねぎを剝ぐと現る一まわり小さな玉ねぎおまえはだれだ

—百均は、とても大きな店舗もあるけれど、これは物理的な迷子ではなくて、百均というシステムの中での精神的な迷子。という事だと思います。何かに追われている。ただ質が悪いだの、途上国がなんだ格差がなんだ、という社会的な理由付けはその影も現わしません。ひたすらに、魂を浸食してくるような印象があります。ジョージ・オーウェルの小説『1984年』のビッグ・ブラザーが、より身近で、質の悪い形で立ち現れた印象も持ちました。
バールの様な物?そばにいて欲しいほどの怖いバールとは、ミステリー小説などで鈍器に使われるバールですが、鈍器であればバールでもバールのようなものでも関係ないんじゃないか。もし、打たれるとするならば、打たれる事は確定していて、変わるとしたらそれが似たものかそのものか。そもそもなんでバールなんだ。というように、形のない不安に覆われた歌です。
その不安さはいたる所にあって、玉ねぎを一枚剝いただけでも、それがなんだったのか、自分がどこにいるのか、分からなくなるほど、足元が崩されている事が感じられます。

暴動のニュースを消せば暴動は消える僕らの手のひらのうえ
ひきこもり人口七十万人と聞く夜の角から崩れるとうふ
テロ等の<等>に僕らは含まれる雨に打たれてキスをしたから
いましがた期限の切れた牛乳を(こわくないよと)二人で飲めば

—現実の希薄さにどこまでも追われていく。携帯の画面を消せば、そのニュース自身も存在を消す。それは、自分の意識が弱いからとか、情報化社会が悪いとか、そういう次元の話ではない。もはや止められない何かの一端で、豆腐の角のように街が崩壊していく。それをただなす術もないものとして見つめている。テロ<等>、賞味期限、など、少しの規範の隙間を、確かに保障してくれる言説や風潮なんてなくて、辛うじて大切な誰かを手を繋ぐ事で生きながらえている。そんなギリギリの世界を感じます。

「いつまでも実家暮らしはアレだし」と言う俺自身わからないアレ
シンプル・イズ・ベストかつ餓死・イズ・シンプル つまり僕らは天国へ行く
「いっしょうのおねがい」を言う 九歳が 十三さいが 五十二歳が

—あらゆる価値観が氾濫している。アレだし。といえば通じる。でも、その本当の意味は追求されきっていない。シンプルイズベスト。では、シンプルな物は全てベスト。というのは論理学の後件肯定という代表的な誤謬。もはや、僕たちは論理の通じる世界には住んでいないという事でしょう。「いっしょう」という意味も平たくのされてしまって、誰も彼もが、限りなく0に近い1の世界を生きている。という事のなのだと思います。
とはいえ、何もかも絶望している訳ではなくて、人の心も、愛情も持っている。

サブウェイの店長として一生を終える他人がとてもいとしい
持ってません温めません付けません要りませんいえ泣いていません

―のような、感情的な歌も印象に残りました。世界を諦めている訳ではない、愛はってもとにかく、全てが不可避である。という事なのだと思います。
加藤治郎さんの帯文「心の底から歌った<おにぎり>がある」も、とても心に残りました。
これだけギリギリの世界を見つめながらも、圧倒的な生命力で生にしがみついている。逆説的な、力強さも感じました。
世界が世知辛い、と思っている方にこそお勧めしたい一冊。底を覗いたのち、新たな光が見えるはずです。(よ)

書籍紹介・・・聖と俗の狭間で、人の営みをみつめる-八木博信さん『ザビエル忌』-

八木博信さんは、2002年に短歌研究新人賞も受賞している歌人で、以前には、『フラミンゴ』という歌集も出されています。

東郷雄二さんのブログでは

ヴァーチャルな神話的空間で残酷さと美しさを詠う

とも評されていますが、『ザビエル忌』に関しては、かなり現実的に問題を直視した描写が多いように感じます。

こんぎつねを撃ちても悔いぬ心あれ朝の読書の沈黙の中

道徳の時間始まる月曜の朝もっとも喉かわくとき

おそらくはどこか過失があるだろうこの美しき方程式に

具体的な懊悩や感情の吐露はかなり抑圧されていると思います。ただ、根本的な視点としては、「罪」を真っ直ぐに見つめている。その強大さから逃げることもしなければ、安易に解決することもない。ただひたすらに正面から向かい合う。という、過酷な状況に身を置き続けています。方程式のように、完璧に見えるような世界にも、ほころびがある。

また通して読む中で、キリシタン、またはキリスト教に精通した方という事が分かります。人の抱える罪をひたすらに見つめる中に、祈りもあるのかも知れません。

「ねえ、先生、来たよ初潮が」おめでとう遥かな国の武装蜂起も

水玉のTシャツなれば教室の流水算に溺れる少女

保育園最後の子供帰宅して園の兎に魔が降りてくる

少女達は、露悪的な世界であったり、選択の余地なく、悲しい環境におかれる事もある。保育園の様な、ある枠を出た瞬間に魔の手に囲まれる事もある。ただ見つめる、という中に憐れみも、怒りもあるのだと思います。ただ、一貫した目線の中に、それでも彼女達は生きていける。という強い確信もあるのではないかと思いました。

希望とはまさに悪徳 若草が蒼し静かに火の迫る野に

いつも来る無言電話の向こうから過失のごとく聞こえる聖歌

マリア像白き両手をひろげ立つタネも仕掛けもありませんよと

祭礼のようではないか厳かに電球ともる地下鉄工事

救いの様なものに出会う事もある。けれども、時にその奥にこそ魔が潜んでいる事も知っている。工事現場や、無言電話にも、人の営み、命の聖性を嗅ぎとっています。世界にはタネも仕掛けもない。何もない、と言われれば何かあるのではないか。と思うのが人であって、常に救いと罪の間を問い続ける、一貫した厳しい姿勢を保っています。

わが死体焼かれるときも寒き日かブーツの先に降り積もる雪

指をつめる極道耳を切るゴッホ おやすみなさい刃を胸に

雪の積もる日々をひたすらに歩く。ただ、どんな人達にも、必ず安らかな日が訪れる。そう信じているから、ここまで一貫した厳しい姿勢を保てるのではないかと思います。

多様な西洋的の見識と視点を元に、硬質で魅力的な世界観の中で問われる人の在り方。

この8月には、色々な事に思いを馳せようと思います。

(よ)

書籍紹介ー「未明」02ー

◆『未明』について

『未明』は「ポエジィとアートを連絡する叢書」というコピーの掲げられた本です。

一見すると詩のアンソロジーですが、他に類を見ない本となっています。あとがきに、この本の意志が書かれていました。

「『未明』は詩誌ではありません。さまざまな職業の表現者たちがそれぞれのポエジィを持ち寄り、それを編んだアンロソジー叢書です。」

◆『未明』のポエジィ

ポエジィは、詩情とも訳されます。ポエジィは詩特有のものかと勘違いされがちですが、僕の畑でいえば工芸。音楽や美術、演劇、あらゆる芸術分野が、詩情をもっています。この本を開いてみると、実は35名中、いわゆる多行書きの詩のみの作品は4名ほどで、ミュージシャンや翻訳家など、詩人以外の顔を持っている人が殆どです。

詩+散文。短歌、俳句、写真。

または単体の版画、日本画、建築、写真。エッセイは、食べ物、音楽、民話、旅、歴史など、多岐に渡っています。

詩誌でも、アートブックでもない。しかし読んでいると、確実に通底したものを得られます。これだけ多様な作家の言葉や表現を1つに繋いでいるもの。作品が本質として抱えているものがポエジィなのだと思います。

本全体ではなく、個々の全ての作品に触れたいのですが、その内容はとても多様です。

木村朗子さんと山本昌男さんの、壮大な幕開けを感じる冒頭の写真。谷川俊太郎さんの果てしない問いかけ。岸本佐知子さんの翻訳された俳句。蜂飼耳さんの、慈愛と命の不思議に触れるような詩と文。扉野良人さんの、僧侶ならではの深みと、世捨て人のような心地よい詩。齋藤靖朗さんの、中世の修道女ヒルデガルドの世界観とその背景もとても興味深かったです。

中家菜津子さんは、当ブログでもご紹介した事がありました。詩や短歌を自在に構成する作家さんなので、むしろここがホームグラウンドなのでは…?と思ってしまうほど、魅力を発揮されているように思いました。

『四季』より『十二月』

me

古いビデオの中の夕光が

窓から差し込んだ夕日に

混じりあうのに見惚れて

五分後、君は巻き戻す

黄色い帆、乾いた音をたてながら風が止むとき銀杏にもどる

ー本当は、作品の連なりの中で得られるものの方が多い気もするのですが…!ややノスタルジックな世界観と日常の中に、叙情、詩的な暗喩が漂います。風を受けた銀杏が黄色い帆に見える。というのはとても短歌的な喩に思えます。実景と喩という行間に、詩と短歌という行間が足される事で、言葉の奥のポエジィが掛け算として広がるように思いました。

小津夜景さんも、とても魅力的な文章を書かれる俳句作家さんです。

『ゼリーフィッシュと遠い記憶』より

「では、水族館に行きますか」

肘をついて、ぼんやりしてゐたら、とつぜん目の前のひとにさう提案された。このひとにはテレパシーの性癖があるのだ。

あんのんと烏帽子に花のえくぼかな

時は春。ハイウェイ・ハイな音楽を聴きながら、海岸ぞひの道を車中から眺めてみれば、どこもかしこも桜の花でいつぱいである。

ペンキ塗りたての札立つ鳥居かな

ー男性は、帽子でも被っていたのでしょうか。烏帽子、テレパシーの性癖、ハイウェイ・ハイなど、キレのあるワードセンスの中に、旧かなづかいや「かな」という切れ字、あんのんという柔らかで古風な響きなど古典的なニュアンスも練りこまれて、文体に取り合わせが散りばめられているような印象もあります。そのせいか、全体は穏やかで水族館に行くという日常のはずなのに、気づけば少し不思議な世界を漂っているような。水族館、クラゲというモチーフが、更に意識を浮遊させます。

松葉末吉さん(テキスト・外間隆史さん)の写真と解説、『松葉末吉のポエジィ。』もとても素敵でした。明治生まれ、北海道の温泉街でバスの運転手をしていたアマチュア写真家の写真を載せています。現像用の水も、1キロ離れた井戸に汲みにいく様な土地にいたようですが、それは、昔懐かしい日本であるとか、貧しさを美化する視点のような表現ではありません。芸術写真のような、偉そうな気配もなく、ただの家族写真というにはあまりに慈しみや叙情にあふれた、とても魅力的な写真です。テキストは、松葉さんを過剰に讃える訳でもなく、時代や、生い立ちを比較的淡々と語っています。市井のアマチュア写真家、その中にも、あまりに豊潤なポエジィがあった事を教えてくれます。

敢えて様々な道筋を用いる事で、芸術全般の本質、詩情を生々しく掴もう。鮮やかに描きだそうという、堅く強い意志を、この叢書全体から感じました。

あとがきより

「詩やそのほかの文章は目に見えるものですが、果たしてポエジィはなかなか文字や絵になってくれません。なぜならそれが「詩的なるもの」ではなく皆さんよくご存知の、心に起こる<現象>に過ぎないからです。

ここに並ぶ作家らの裡(うち)に明滅したほんの微かな<現象>を、どうぞご覧ください。

それはきっと、あなたの裡にも起こるはずです。」

このブログでどこまで説明しても現象の説明にしかなりません。その現象そのものは、是非、ご自身の心の中で味わって戴ければと思います!

(よ)

書籍紹介ー石亀泰郎さん写真集「ふたりっ子バンザイ」

今橋さんの歌集に続き、子ども関連の本の紹介です。

50年以上、子どもの写真を撮り続けた石亀泰郎さんの、最初の写真集の復刊です。戦中に生まれ、小学生の頃は農村に引き揚げ、中学の時は北海道の叔母の養子になり、子どもの頃は寂しかった。という石亀さん。

『ふたりっ子バンザイ』は、本当に日常の風景。ミルクを飲む。寝る。三輪車を押す。笑う。押し合う。泣く。走る。当たり前の日々が綴られています。

ネットに溢れるような派手な夕日や、「奇跡の瞬間!」の様なシーンは1枚もありません。普通の日常。ただ、この2人にとっては生きている事がどうしようもなく刺激的で、真剣で、かけがいのない事なのだと気付かされます。街にいる子ども一人一人が、全ての大人が、この世界を持っていたのだと教えてくれる。

本当は毎日が、今の一瞬が、私達の奇跡の瞬間なのだと思います。

ふたりっ子バンザイ!!

生命バンザイ!

あとがきよりー

「今の子どもたちを見ていて思うのは、自然の中で育つ機会をもっと増やしたほうがいいということです。もう一つは、子どもたちに自分自身で何かを見つけだしてくる癖を身につけさせることだと思います。」

この写真集で、一つ、大切なものを見つけられた気がします!

(よ)

書籍紹介ー今橋愛さん「としごのおやこ」

今橋愛さんの第三歌集。多行書きで、57577とは別の切り方をする特徴ある作風の今橋さんですが、とくに今回は育児、子どもここちゃんとの歌がほとんどで、これまでとは少し違う歌集となっています。
※本文では縦書きなので、印象が違うかも知れません。ご了承ください。

あかるいみらい
あかるいみらいに立っている
じめんをふんで ぼくはあるきぬ

わたしうむの、うむよ
はねをぬいて
せかいを

うまれたまちで あかちゃんをうむの。

ママ5才
ここは4才
おかしいね。
かささしていく
としごのおやこ

—ひらがなや甘い雰囲気の漂う作風の今橋さんですが、被写体との化学反応で、まるで
こどもが稚拙に語りかけてくる様な印象を受けます。
しかしそうなるのは偶然ではなくて、子を持つ母の多くは身体と、心の奥の方まで子どもの世界に取り込まれる。一体になるような事が多いのではないでしょうか。
ママが5才。おかしい。でも、おかしくない。同じ身体なんじゃないかと思うくらい近くにいるし、物理や時間を越えた存在として共に生きるここちゃんの魔力は、どんな子どもも、最初から持っている神秘なのではないかと思います。傘の下、2人だけの世界を歩いていく様が目に浮かびます。

ここちゃんの髪の毛は
クリームブリュレや
カヌレのようなにおいがするよ

ここちゃんは全身で表現するから
すきにならずにいられないです

「4月からピンクの帽子のここちゃんです!」
おかあさんはさみしいのです。

おいかけて
とととと と とりあるいてて
まえぶれもなく
とぶ
きゅうに ぱっと

—実は、単語や出来事自体は驚くほどシンプルだと思います。難しい用語もなく、目の前を直球で描写している。
子どもって甘い匂いがする。全身で表現するよね。学年あがって寂しい。
もはや子育てあるあるのような気すらします。
それが何故か、圧倒的な感情量と、リアリティと詩情をもって迫ってくるのが不思議です。

字余りによって溢れる感情。稚拙にもみえる語り口によって、その衒いのなさ、無防備なまでの率直さが表現され、短歌のリズムが改行で更にリズムを付加されて生まれる音楽性など、全てが一本の愛おしい日々に集約されていきます。

もうたりひんことをかぞえるひまはない
このひとたちと生きていきます

じてんしゃをこいでいるんだな
このまちで
それが全然いやじゃないんだ

工場のドアをあけると
じいちゃんばあちゃんがいて
そうだった わたしの場所は

うれしいのは
ももがすきな子にももをむき
おいしいと言って
たべるの みること

—たまに、ここちゃんではなく、自身の描写が出てきます。それは、ここちゃんとの暮らしの中で更新されていく自身の姿。
理屈や発見という様な、大人のやり方とは違う。苦労しながら世話をしているようで、実は無条件に自身を肯定してくれる巨大な存在、ここちゃんへと還元されていく感じを受けました。直球、そのままの言葉で、正面から、こちらの心もこじ開けられてしまうような力を感じます。

—帯に、「すべての子どもを産み子どもを喪くした人へ」
という言葉があるので、ネタバレにはならないと思います。
この世に生まれてこられなかった、ときちゃんの話です。

ポリープの話をきいて、そこからさき 心ぞうの音がしない。え、なにそれ

生まれてくるだけで
そだてて産むだけですごいことやのに わすれてしもたんか

「にじゅういちがつに ときちゃんうまれるの?」
行きたいね。
にじゅういちがつに
みんなで

急に改行がなくなり、素の関西弁が出てくる。ひらがなのここちゃん的文体と、あどけないその姿。
名状し難い感情の乱高下、しかし流れる日常、しかし何もかも違う。
この連続は、間違いなく歌集という連続した中でしか生まれない世界で、一読いただくしかないのだと思います。

途中の文章、日記も、等身大の生活を表していて素敵でした。

また
写真 石川美南
題字 COCO
装幀・イラスト 花山周子

となっていて、石川さんも花山さんも歌人の方です。COCOは、おそらくここちゃん。
等身大、手に届く範囲の世界を、かっこつける事もなく、しかし大きな感動を持って、驚くほど鮮やかな形で表現するというのは、本当に短歌・歌人の力なのだと思います。

子どもを持つ方、これから持たれる方に響くことは間違いないのですが、日々を新鮮に形にする力、生き方とともに変化する歌人の立ち方。すごく美しくて清々しい。全ての方にお勧めできる一冊です!

(よ)

小津夜景さん『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』

『フラワーズ・カンフー』などでも話題の、小津夜景さんの、漢詩の翻訳+エッセイの本・・・
と、言ってみたものの、おそらく、多くの方が先入観として持つ漢詩やエッセイのイメージを清々しく、刷新してくれる本です。

私自身がそうでしたが、漢詩というと、やや硬くて、重たそうなイメージ。エッセイには、ライトに日常を心地よく綴るというイメージがありました。
敷居が低いと聞いて入門書のようなイメージを持つ方がいたら、それは全くの思い過ごしで、本当に心から魅力的な詩集として、漢詩の数々が立ち表れてきます。そして、小津さんの語りを通して、気づけば文学の深く大切な所に触れてしまう、飛躍力のある本だと思います。

小津さんの俳句の力を知る方には説明不要ですが、小津さんの紹介する漢詩はとても軽やかで、生きる事へのまなざしに溢れています。それらが、フランスでの生活や日々の思考のエッセイと境なく融合していて、今の僕たちでも、手に触れるように実感できる驚異的な表現力に満ちているように思いました。エッセイにも多くの詩歌が引かれていますが、それらが小津さんの圧倒的な知識、思索、感性でひとつなぎになって、全体として詩形を越えた一つの詩を読んでいるような気になります。とても、漢詩+エッセイという言葉だけでは収まり切らない作品です。

タイトルにもなっている、冒頭の一節より

1, カモメの日の読書

かぼそい草が
かすかな風にそよぐ岸
帆柱をふるわせる夜船に
わたしはひとりだった

満点の星は
地をすれすれまでおおい
ひろびろと野が見晴らせる

黄金の月は
波にくだけつつきらめき
ゆったりと河が流れていく

世に出るのに
文才などなんの役に立つだろう
官職にしがみつこうにも
いまや齢をとりすぎてしまった

あてもなくさすらうわたしはまるで
天地のあわいをただよう一羽のカモメだ

(杜甫「旅の夜、想いを書く」)

なんとなくフランスにやってきて、国内をあちこち移動しているうちにどんどん貧乏になって、それでも日本から持ってきた本やCDを売り払って食いつなげるうちは良かったけれど、そのうち売るものもなくなり、ああこの先どうやって生きてゆこうと夫婦で困っていた。するとそこへ、
「うちだ雇ってあげるから来なさい」
と声をかけてくれたひとがいた。」

・・・などと、ふいに引き寄せてくれた人、その人も流れ者で、いくつかの国での博士号までもっている不思議な人に出会い・・・と、漢詩や俳句に思いを馳せながら、世界を掘り下げていきます。本当に自然に、詩歌を身体の中に携えて生きている方なのだと思います。読んでいくと過去の先人、国内外の文豪、語感、対句、集句、中国の世界観、狂歌や遊び、戦争と言葉、ついには初めてのストリートファイト(!)の話まで、色々な知識も入ってきます。付録のノワール論なども、とても面白いです。

詩歌に携わる方にも、そうでない方にも、一度は触れてほしい一冊!

書籍紹介ー小佐野彈さん「メタリック」

話題の一冊。装丁、鈴木成一デザイン室。まず目を引く表紙とテクスチャです。

帯には「オープンリーゲイとして生きる自分の等身大の言葉を、短歌という「31文字の文学」で表現する」
とあります。

家々を追われ抱きあふ赤鬼と青鬼だつたわれらふたりは
ほんたうの差別について語らへば徐々に湿つてゆく白いシャツ
ぬばたまのソファに触れ合うお互いの決して細くはない骨と骨
赤鬼になりたい それもこの国の硝子を全部壊せるやうな
どれほどの量の酸素に包まれて眠るふたりか 無垢な日本で

第60回短歌研究新人賞でも話題になった、連作です。
赤鬼、青鬼。思い出すのは、絵本の「泣いた赤鬼」でした。
人間と仲良くなりたかった赤鬼は、色々人間をもてなそうとしますが、上手く行かない。
ついには、青鬼が(赤鬼に黙って)犠牲になり人間と赤鬼を繋いで、さらに赤鬼に迷惑がかかるから。と、遠くに旅立ってしまっていた。という話。

二首目。
本当の差別。とはなんだろう。と、多くの人が思うかと思います。
単純な強さ、切り口、質の問題、など色々想像したけれど、なかなかたどり着けない構造にある様に思います。しかし実体は、真理のように語れるものではなくて、シャツの湿りのような、体感的なところにあるのだと思います。

五首目
表題にもなっている無垢な日本。ふたりにとってはとても呼吸のし辛い世界という意味かと思います。

広告などではセンセーショナルに語られがちなのですが、全体は穏やか。自己抑制的、でも、暗くはない印象です。
独裁者になって人を罰してやろう。じゃなくて、物語にいるような鬼になって、硝子を壊してやろう。という抑制。
無垢な日本、というのは、なにもないという事で批判的にもとれるし、辞書的には肯定的な意味にもとれます。

YouTubeひらけば画面いつぱいに廃墟。そろりと起きてシャワーへ
こんなにも明るい夜に会ふなんて今日のふたりはどこかをかしい
亜麻色の髪つんつんと逆立ててぬるい夜風に君が刃向かう
お茶割りで夢を語らふくちびるに蛍火ほどの微熱はうまれ

タイトルにもなっている「メタリック」は大好きな連作でした!長めながら、恋人に会う一日の流れが緻密に描写されています。
都市の硬質感、寂しさを重低音にしながら、全体的には、つられてウキウキドキドキする展開・・・段々気持ちが高まっていく、ドライブ感が楽しかったです。
(新宿デート、したくなりますね・・・(笑)

抑圧の名残り まあるくやはらかで少しぴりりとするバインミー
鬼の棲む島といふ島焼き払ひやつと安心ですか 祖国は
つながりは夜に危ふく保たれてユダはイエスのかたへに眠る

などは分かりやすいですが、身の回りの問題を越えて人類や国家、広い視点への問題意識や愛情が基盤にあるようにも思います。世界の不条理や歪み、その悩みを示唆するような歌はたくさんあるのですが、やたらに噛みついたり、投げやりになるような歌はほぼ無いように感じます。本当に強い、花のようなお方・・・

ほぼ同じ青の短パン脱がしあひながらおやすみ、ドロシーと言ふ
軋むほど強く抱かれてなほ恋ふる熱こそ君の熱なれ ダリア
弓張のひかりのなかを黒髪はたゆたひながら結はれゆきたり

ストライクに、美しい・・・という歌も多くて、好きでした。
など殆んど、小佐野さんの視点や、歌の美しさについて書こうと思ったのですが、頭のもう片方ではマイノリティの抱える問題や、現状、自身の意識について向かい合わざるを得ませんでした。歌人個人の体験を通して、世界の深いところ、広いところにまで導いてくれる、短歌の強さも再確認した次第です。とはいえ、決して硬くはないので、たくさんの方が読んでくれたらなぁ・・・と思います。(よ)

書籍紹介ー「俳句という他界」関悦史さん(邑書林)

関悦史さんの評論集です。

三橋鷹女、田中裕明、安井浩司、池田澄子、さんら、作家論も刺激的なのですが、何と言っても表題の俳句の他界と関連する、「俳句の懐かしさ」「断章」がエキサイティングかと思います。

フランス現代哲学、シュールレアリスムを始めとした美学、民俗学的知識など、広い知見と思索の到達点として、関さんの俳句がある事が分かります。

「俳句は自己・自分語りをそのまま持ち込むことに適していない。(中略)メタレベルの自己を包摂しつつ、しかし個体性からも遊離しないという二重性の中で生成し続けるものなのだ」

「言語は、虚に居て実をおこなふべし。実に居て虚にあそぶ事はかたし」『本朝文選』

「「俳諧」にはもともと「滑稽」の意味があるが、この二重性はユーモアと同じ構造を持っている。(中略)自己を最低限、他者性へと開くのが「季語・季題を入れること」という約束事なのである。」

季語・季題を入れるという事は、他者・他界への道を開く事である。という話です。それは連歌の歴史もある訳ですが、その自・他を繋げる所に、踏み込んでその「聖性」についても触れています。

「聖性とは、この世だけて完結した価値観や、個人の実利的合目的性を超えたものがこの世に介入したときに生まれるものである。」

ただの物理的な現実にも、個人的な主観捉われない新しい次元を開いてくれるのか季語、という事かと思います。

「俳句は飛躍と断裂の驚異によって自己や因果律を離れ、その上で他界的なものを含みつつ再統合を果たすものなのだ。俳句はジャンルの出発当初から必然的に「前衛」であり、それゆえに懐かしみを表出するものだったのだといってもよい」

とにかく、この宣言と、深い俳句愛にしびれました…!

たくさん引用してしまいましたが、実は、ここまででまだ開始15ページ。

本当にエキサイティングな評論集です。

(難しいかな?と思われがちですが、短い章が多いので、割とさくさく読めました。)

評論の感想、というのも難しいのですが、色んな方に見てもらいたい!と思い、投稿してみました。

是非是非、お手にとってご覧くださいませ!

(吉田)