書籍紹介ーゆるやかさと、鋭さと、その奥に潜むものー辻聡之さん『あしたの孵化』

かりんの会、辻聡之さんの第一歌集。なんだかオリエンティックで、かわいらしく、でも現代性もある表紙。中を開いてからまた表紙を見てみると、可愛さより、何か荘厳なイコンの様にも見えてきました…

ナポレオンは三十歳でクーデター ほんのり派手なネクタイでぼくは

わたくしも誰かのカラーバリエーションかもしれなくてユニクロを出る

溶け出していないか確かめるために布団の中で反らすつまさき

歴史に残る革命と、ちょっと派手な服装の自分との対比。そんなに主張するでもないし、誰かのバリエーションの一つ程度かもしれない自分を卑下するでもない。少しオフビートで、アンニュイな人間観を歌った歌集…と見せかけて、すごく繊細で鋭い感性を感じさせる歌もたくさんあります。

イヤホンをさしこむ間際つよく名を呼ばれたようで ぐるりビル風

こうやってゆっくりさめるぼくたちの熱も眠りも美しい朝

やってらんないすよと後輩 コピー機の排熱ほどの声に触れたり

菜の花にあなたの遠くまぶしがるしぐさばかりが揺れやまざりき

イヤホンを差し込む。世界の音を分断する瞬間に、その分断を食い止めようとする強い呼び声を聞き取る。無機質なビル群の中にも、神秘的な磁場が息づいている事を暗示しています。

コピー機→排熱の関係を後輩の溜息と対比させる。コピー=仕事が本分、とされている様で、実際の人間らしさは排熱にあるのでは?などと気付かされます。

また、世界への諦念の様なものと、センシティブな感受性が共鳴して、世界の何か大きくて恐ろしいものに触れているのも特徴的に感じました。

蛸を噛むきみを見ている上顎はぶれないきみの確かな頭骨

正論を説かるる夜の鉄網の牛ホルモンに焔立ちおり

借りてきた言葉で報告する会議ふいに誰かが冷房を切る

蛸を噛む。好きな人が、グニグニした切れづらい蛸を噛み切る様を観察しているのもあまりにクールですが、その作業の中で上顎はぶれない。頭骨はしっかりしている。という観察は、愛のまなざしというより、解剖してしまうような冷酷さすら感じます。急に、特定の人の構造の強さを確認するのも不気味だし、普段から頭骨が不安定な人をそんなに見ているのだろうか。など、不穏な想像を膨らまさせます。

正論、というからには、理詰めで何か切り捨ててしまっている要素も感じます。夜の鉄網の上で焼かれる内臓。何かを断罪する儀式の様でもあるし、何かの憎しみが仮託されている様な気配も感じます。分からない、しかし、正論の横では何かが焼かれるという不気味さがあります。

借りてきた言葉での会議、とはよくありそうな光景です。確実に何かを決める場ではあるものの、決定は誰の意思で行われるでもない。不如意な力に支配されています。そして、誰かは分からないけれど、空気の調節すらも、どこかしらで行われる。温度が、快適になるのか、より厳しくなるのかは分かりません。もしかしたら、報告を聞く為、その不如意な決定力により身を委ねる為に、エアコンを消したのかも知れません。

なにか強い希望や夢に燃えている訳ではないけれど、とても繊細な感性で美しい世界を感じとっている。その中には、自分では動かしがたい、とても大きな不穏の様なものもあるけれど、受け入れてしまうような寛容さがあります。絶望的な諦めというよりは心一つで乗り越えてしまうような強さを感じました。

花冷えにトリートメントのしみわたる髪の先まで生きなくてはね

すごく、多様な読み解き方の出来る歌集だと思います。多くの方に、手にとっていただきたいです!(よ)