書籍紹介・・・聖と俗の狭間で、人の営みをみつめる-八木博信さん『ザビエル忌』-

八木博信さんは、2002年に短歌研究新人賞も受賞している歌人で、以前には、『フラミンゴ』という歌集も出されています。

東郷雄二さんのブログでは

ヴァーチャルな神話的空間で残酷さと美しさを詠う

とも評されていますが、『ザビエル忌』に関しては、かなり現実的に問題を直視した描写が多いように感じます。

こんぎつねを撃ちても悔いぬ心あれ朝の読書の沈黙の中

道徳の時間始まる月曜の朝もっとも喉かわくとき

おそらくはどこか過失があるだろうこの美しき方程式に

具体的な懊悩や感情の吐露はかなり抑圧されていると思います。ただ、根本的な視点としては、「罪」を真っ直ぐに見つめている。その強大さから逃げることもしなければ、安易に解決することもない。ただひたすらに正面から向かい合う。という、過酷な状況に身を置き続けています。方程式のように、完璧に見えるような世界にも、ほころびがある。

また通して読む中で、キリシタン、またはキリスト教に精通した方という事が分かります。人の抱える罪をひたすらに見つめる中に、祈りもあるのかも知れません。

「ねえ、先生、来たよ初潮が」おめでとう遥かな国の武装蜂起も

水玉のTシャツなれば教室の流水算に溺れる少女

保育園最後の子供帰宅して園の兎に魔が降りてくる

少女達は、露悪的な世界であったり、選択の余地なく、悲しい環境におかれる事もある。保育園の様な、ある枠を出た瞬間に魔の手に囲まれる事もある。ただ見つめる、という中に憐れみも、怒りもあるのだと思います。ただ、一貫した目線の中に、それでも彼女達は生きていける。という強い確信もあるのではないかと思いました。

希望とはまさに悪徳 若草が蒼し静かに火の迫る野に

いつも来る無言電話の向こうから過失のごとく聞こえる聖歌

マリア像白き両手をひろげ立つタネも仕掛けもありませんよと

祭礼のようではないか厳かに電球ともる地下鉄工事

救いの様なものに出会う事もある。けれども、時にその奥にこそ魔が潜んでいる事も知っている。工事現場や、無言電話にも、人の営み、命の聖性を嗅ぎとっています。世界にはタネも仕掛けもない。何もない、と言われれば何かあるのではないか。と思うのが人であって、常に救いと罪の間を問い続ける、一貫した厳しい姿勢を保っています。

わが死体焼かれるときも寒き日かブーツの先に降り積もる雪

指をつめる極道耳を切るゴッホ おやすみなさい刃を胸に

雪の積もる日々をひたすらに歩く。ただ、どんな人達にも、必ず安らかな日が訪れる。そう信じているから、ここまで一貫した厳しい姿勢を保てるのではないかと思います。

多様な西洋的の見識と視点を元に、硬質で魅力的な世界観の中で問われる人の在り方。

この8月には、色々な事に思いを馳せようと思います。

(よ)